明治天皇は嘉永5年9月22日(新暦11月3日)、孝明天皇の皇子として御降誕あそばされました。アメリカのペリー提督が軍艦四隻をひきいて浦賀に来航した前年のことです。当時は欧米の列強諸国が競って東洋に植民地を求めて進出した時代で、日本も一歩その対策を誤れば、たちまち欧米諸国に蚕食(さんしょく)されるという危険をはらんでいました。
一方、日本の国内情勢は、徳川300年にわたる封建制度が破綻をきたし、皇室を中心とする新体制を望む声が高まって国論が沸騰し内憂外患こもごも至るという、まさに狂乱怒濤、物情騒然たる有様でした。このような情勢の中で、孝明天皇が崩御され、明治天皇は慶応3年1月9日、御年わずか16歳で皇位をお継ぎになったのです。
ほどなく将軍徳川慶喜の大政奉還にともなって、同年12月王政復古の大号令を発せられ、翌4年(明治元年)3月14日、天皇は紫宸殿に天神地祇(てんしんちぎ=天地の神々のこと)をお祭りになって、五箇條の国是をお誓いになり(五箇條の御誓文)、施政の大方針を明らかにされました。そして同年9月には年号を明治と改められ、10月には東京遷都、12月御成婚、そして翌2年版籍奉還、4年の廃藩置県、5年の学制頒布その他鉄道、電信、電話の開通、太陽暦の採用など新政の施策が次々に進められました。
「大政奉還」聖徳記念絵画館壁画
「憲法発布式」聖徳記念絵画館壁画
さらに明治22年には帝国憲法を発布せられ、翌23年には帝国議会の開設があり、また教育勅語も御下賜になりました。こうして日清・日露の両戦役をへて国威は大いに宣揚され、我が国はわずか半世紀の間に立憲政治を確立し、産業の開発、国民教育の普及と文化の向上、国防の充実、諸外国との交流など近代国家への脱皮発展は目覚ましいものがあり、遂には東海の一小国より世界の列強の一つに数えられることになったのです。
しかしこの間、常に国民の先頭にお立ちになって、国利民福(こくりみんぷく=国家の利益と人民の幸福)のためひたすらお尽くしあそばされた明治天皇さまの御心労は、いかばかりであられたでしょう。日露戦争後はめっきり御年を召されたと伝えられていますが、明治45年7月30日、国民号泣の中に御年61歳をもって崩御あそばされたのです。大正元年9月13日、東京青山(現在の神宮外苑のある場所)において御大葬が行われ、翌14日京都南郊の伏見桃山陵にお鎮まりになりました。