功臣への心遣い
君がため心つくしてまめやかに
つかふる臣の多き御代かな
明治5年以降明治天皇の侍医を奉仕し、近代医学教育制度の功績者であった岩佐純は大の子煩悩で、参内の時に孫を馬車に乗せて御門まで連れてくることがあったそうです。皇后はそのことをご存じで、
「岩佐、孫はどうしている」
とお言葉をかけられ、玩具などを下賜されましたが、むろんこのような臣下へのお心遣いは、ひとり岩佐のみに注がれたものではありません。
皇后はとりわけ、長期にわたって国家のために尽くした功臣に対し、心から敬意を払われました。明治42年には、前宮内大臣土方久元(ひじかたひさもと)と枢密院副議長東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)が77歳、枢密顧問官佐佐木高行・同黒田清綱が80歳の高齢を迎え、上野精養軒において祝賀の宴が開かれましたが、皇后は4人をお祝いし、次のお歌を詠まれました。
あえものともてはやすなりすくよかに
よはひかさねし人の盃
4人は宮中に招かれ、香川皇后宮大夫よりこのお歌の短冊を拝受しましたが、皇后がしたためられた極めて美しいものでした。
また明治38年12月から42年6月にわたる3年半、韓国統監を勤めた伊藤博文が、事務引継を終えて7月20日新橋停車場に到着し、明治天皇から差し向けられた馬車に乗って宮中に参内しました。この時皇后は伊藤の功労を讃えられ、次のお歌を下賜されました。
天つ神しろしめすらむまめやかに
君につかふる臣のこころは
その3カ月後、伊藤博文はロシアの蔵相ココフツェフと極東問題について会談するため満州に赴きましたが、10月26日の朝、ハルピン駅頭で韓国の青年に射殺されるという衝撃的な事件が起きました。
両陛下が伊藤の突然の遭難に悲しみを深くされたのはもちろんでしたが、とくに皇后は未亡人梅子に対しても、ご同情のお言葉を賜ったのでした。
【土方久元】
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)