皇后のご性格
皇后のご性格について、山川三千子は著書『女官』に次のように記しています。
大勢いる女官たちにも、すこしのわけへだてもなく、いつもほほえんでおいでになって、お言葉はすくなく、こちらから伺わなければ、あれこれとあまりお指図は遊ばしませんが、女官たちの気性もよくご存じのようでございました。
私が出仕した時は、薮(やぶ)権典侍が大手術痕の転地療養で長い欠勤、小池掌侍も肺炎とやらで、たいへん手不足の時でございましたので、先輩たちからゆっくり指導を受ける暇もなく、まだお品物の名さえしかとわからぬながらに、一本立のような形にさせられて、まごまごしておりました。すると、誰もいない時に、
「わからぬことがあったら、他に人のいない時なら何でも教えてあげるよ」
との、おやさしいお言葉をいただきました。また教えてもらっても、その人によってやることが多少違いますので、
「若菜からはこうおそわり、撫子(なでしこ)からはこう習いましたが」
と伺うと、
「人によってはすこしやり方が違うけれど、私に対して悪いようにと思う人はない、皆これがよいと思いながらしているのですから、黙っています。しかし都合をきいてくれるのなら、こちらの方が私は好き」
とおっしゃるといったあんばいで、ちっとも、無駄口は仰せられません。どちらかといえば冷静で、学者肌のようにお見受け申し上げました。
山川はさらに、次のように振り返っています。
陛下はご幼少の頃からのご内定で、特別のご教育をお受けになり、お年も若くて初めから皇后宮様に(たいていは皇太子妃から皇后宮になられる)おなりになりましたので、ご責任も重く、すべてにひかえ目がちのご性質も手伝って、何事もお言葉として出るまでは、ずいぶんよくお考えになるご様子でございました。あの大勢の女官を、円満にお使いになるだけでも、なかなかたいへんなお仕事で、ご苦労のほどもさこそと存じ上げました。ともかくうまく治まっていたこと、病気以外は途中退官した者は一人もなかったのを見てもわかります。
当時女官は典侍(てんじ)・権典侍(ごんてんじ)・掌侍(しょうじ)・権掌侍(ごんしょうじ)・命婦(みょうぶ)・権命婦(ごんみょうぶ)などの職掌に分かれており、合計で20人以上がお仕えしていました。皇后はおそばに仕える女官をお叱りになったことはなく、もしあやまちがあっても、穏やかに「過ちは誰にもあること、以後慎むように」と諭されたそうです。
またたいへん緻密なご性格で、臣下に物を賜るときにも、家族の数や子供の数までお調べになって、万遍なくゆきわたるように深く注意をはらわれました。行啓の際のお土産なども誰にはこれ、ときちんとその人をみてふさわしい品物を選ばれるので、足りないことも余ることもありませんでした。
【『女官』山川三千子、講談社学術文庫】