侍従職出仕の教育
侍従職出仕の職掌は明治22年に定められましたが、その以前は「内豎(ないじゅ)」、明治維新より前は「稚子(ちご)」と呼ばれていました。これは天皇のそばでいろいろと日常のお世話をする職務で未成年の男子が担当しました。
侍従職出仕を奉仕した人々のうち、当時の様子を書き残している人は少なくありませんが、ここでは明治39年から41年まで天皇に仕えた岡崎泰光の逸話を紹介しましょう。
岡崎がおそばに仕えて間もないころ、
「侍従職へ行って低気圧の様子を聞いてまいれ」
と指示がありました。天皇はいつも侍従職を通じて気象台に天気をお聞きになっていたのですが、岡崎は奉仕をはじめたばかり、まして13歳の少年でしたので「低気圧」という言葉がわからず、天皇にお聞きしました。すると天皇は気圧と天候の関係についてわかりやすく説明してくださったそうです。
また、ある時には
「庭に梅と松の木が何本あるか、数えてまいれ」
と命じられました。御苑のなかのたくさんの木立をあちこち数えまわって、
「梅が何本、松が何十本ございます」
と答えますと、天皇はその数が間違っていてもおとがめもせず、
「ああ、そうか」
とニッコリされたそうです。
御苑にはよく、カラスがたくさん集まってきてやかましく鳴くことがありました。天皇は時々、
「カラスを追ってこい」
と岡崎に命じました。岡崎は専用の長い竿をかついで御苑を走りまわり懸命にカラスを追い払い、やっとの思いで帰って来ると、またすぐに鳴き出すこともありました。けれども、
「まだ鳴いているではないか」
というようなことは決しておっしゃらなかったそうです。
岡崎はこの当時の様子をこのように振り返っています。
なにぶん子供のことですから、注意力や自然を愛する心を理屈で説明しても飽きてしまいます。陛下は梅の木を数えるとか、カラスを追うとか、子供の興味の湧きそうな仕事を下さって、知らず知らずのうちに私どもをお育て下さったのだと思います。
【松と南神門】