さすがに伊藤はよくわかる
伊藤博文は数多い政治家の中で、明治天皇がことのほか信頼を寄せられた人物です。
伊藤が御座所に参内すると、天皇はいつも椅子を与え、ご自身もいたってくつろいだ様子で分け隔てなく相談をお聴きになり、いろいろと談話をなさいました。天皇の御前で椅子に座ることを許されたのは、伊藤博文と田中光顕の二人だけであったといわれています。
日露戦争が終結を迎え、アメリカのポーツマスで講和会議が開かれることになった時、首相の桂太郎は天皇に、講和会議に列席する全権委員として伊藤を派遣したいと申し上げました。しかし常に伊藤をよき相談相手にされていた天皇は、
「かりに重大事件が起こったとき、相談できる者がいなくなる」
とお許しにならなかったため、やむなく外務大臣の小村寿太郎が派遣されることになったのです。
またあるとき、宮内大臣が裁可を願った事件について天皇が別のご意見を示された事がありました。
「陛下のご意見では理屈が通らぬ」
と考えた宮内大臣は、原案通りに裁可いただくように再度願い出ましたが、天皇もまたご自分の意見に固執されてなかなか結論が出ません。いろいろと議論がおこなわれたすえ、天皇は、
「伊藤の意見を聞いてみよ」
と伊藤のもとへ使いを出されました。
側近の栗原広太が命を受けて伊藤に面会し、事情を説明すると、伊藤は次のように答えました。
「たしかに宮内大臣の申し上げた案が正しい。しかしながら、もし陛下の主張されるご意見に従った場合でも、いささか理屈に合わないというだけで、そういうときはなるべく陛下のご意見に従うべきである。何としてもご意見に従うことのできない重大問題が生じた場合には、それこそ意を決しておいさめ申し上げなければなるまいが、できる限りご意見を尊重するべきである。宮内大臣には、当面陛下のご意志に添うように勧めるといってくれ。また陛下には、ご意見ごもっともに存じますと申し上げてもらいたい」
栗原がこれを天皇に報告申し上げると、天皇は、
「さすがに伊藤はよくわかる」
と、とても満足のご様子であられたそうです。
明治42年10月、伊藤がハルピンで遭難した時、側近のものが、
「たいへんなことになってしまいまして」
と申し上げると、
「うん」
とお答えになったきり一言もお言葉がなく、「ほんとうに困った」というご様子で、親愛なる臣下を失われた悲しみはいかばかりか想像もつきません。天皇のご健康はこの事件以降あまりすぐれず、日増しに衰弱されてゆかれたといわれています。
【伊藤博文】
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)