義手義足を敵兵にまで
明治27、8年の日清戦争の時、皇后は大本営野戦衛生長官を務めていた石黒忠悳(ただのり)を御前に召し、次のように下問されました。
「戦役で負傷した者の中には、手足を失った者も多くあると聞くが、さぞ困難するであろう。何か助けるすべはないか」
石黒が義手や義足を与える方法のあることをお答え申し上げたところ、数日後宮内省から、
「負傷者には皇后陛下から義手義足を賜るので、陸軍省で製作方法を取り計らうように」
という指示がありました。
この時石黒は香川大夫を通じて、
「手足を失った者のなかには敵兵もおりますが、いかがいたしましょうか」とお伺い申し上げると、皇后は、
「もとより敵兵にも賜る」
とお答えになり、敵国の負傷者までがこの恩沢に浴することができたのでした。これは日露戦争でも同様に実施され、敵兵負傷者をも厚く看護する日本の人道的な姿勢が、国際的に高く評価されました。
また35年5月、皇后は香川大夫を通じて石黒忠悳に、日清戦争の時に義手義足が与えられた者で、その後年齢や体格の変化で補修を必要としているものについて調査することと、修復費用にお手許金を下賜されることをお伝えになりました。
石黒はこの時、皇后の兵士たちへの温かいお心遣いに感激し、涙にむせぶばかりであったということです。
また皇后がふだん用いられる紙は、半紙や美濃紙等いずれも最良のものを特別に差し上げることになっていました。しかし、ある時、戦地の兵士が手紙を書く紙が不足し、ちり紙や古新聞、さらにハンカチや手ぬぐいの端などに書いてよこしているということをお聞きになり、ご自分の紙に最良のものを用いられるのをただちにおやめになり、戦地にむけて大量の紙の寄贈を命じられました。
【石黒忠悳】
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)