唱歌「金剛石」
華族女学校(現在の学習院)は赤坂仮皇居に近接していましたので、皇后はしばしばお庭伝いに行啓され、授業のさまを視察されては生徒にお菓子を賜わり、あるいは皇室が編纂した『幼学綱要(ようがくこうよう)』『婦女鑑(ふじょかがみ)』などの徳育書を下賜(かし)されたこともありました。
皇后ご自身が華族女学校行啓について記されたご文章が残されています。
各教室では幼い子が無邪気に微笑みながら、心穏やかに授業を受けていて、とても可愛らしい。このように幼 少から学ぶことが肝要であり、将来が頼もしい。また上級生も、熱心に学問の道に勤しんでいる。学業が身についたならば、きっと世間の模範となる人々が多いことと思うばかりでなく、立ち振る舞いや仕草に少しも男びた様子がなく、愛しく感じられて、まことに嬉しい。
また、当時教授を勤めていた下田歌子は、次のように語っています。
まったく御所の御敷地の中に学校が出来たようなお気持ちで、陛下もお気軽にお出ましになれたのでしょう。時には当日の朝になり「午後より行啓」とご内達がある場合があり、失礼ながら平常のままお迎え申し上げるようなこともありました。陛下には校内を隅々までご覧になり、ご昼食後、終日学校で過ごされることもありました。生徒の学習状態についても興味深く熱心にご覧になり、ご注意のお言葉を賜ることもございました。日本の女子教育が今日のように発展したのは、昭憲皇太后が教育上の指標を賜ったからに違いありません。女子教育の草創期を追想して、坤徳(こんとく)の有り難さにただ感泣するばかりです。
明治20年3月には、この学校に「金剛石(こんごうせき)」「水は器」の二首の唱歌をご下賜になりました。学業勉励の肝要なところをお諭しになり、教育の方針を懇切に教えたいという御心が、お歌のなかに端的に表れています。
金剛石
金剛石もみがかずば
珠のひかりはそはざらむ
人もまなびてのちにこそ
まことの徳はあらはるれ
時計のはりのたえまなく
めぐるがごとく時のまの
日かげをしみてはげみなば
いかなるわざかならざらむ
水は器
水はうつはにしたがひて
そのさまざまになりぬなり
人はまじはる友により
よきにあしきにうつるなり
おのれにまさるよき友を
えらびもとめてもろともに
こころの駒にむちうちて
まなびの道にすすめかし
【下田歌子】
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)