華族女学校の創設

  花になれ実をもむすべといつくしみ

       おほしたつらむやまと撫子

 

 明治10年、皇族や華族の子弟のための教育機関として、神田錦町に学習院が創設されました。同じ敷地内に男子部と女子部があり、開校当時生徒数は男子が200名に近かったのに対し、女子はわずかに59名でした。その後女子教育の充実に向けての気運が高まり、四谷にあった皇室付属地に宮内省直轄の女学校を作る計画が持ち上がり、宮内卿伊藤博文は華族女学校開校の準備委員に、当時宮内省御用掛の職にあった下田歌子(しもだうたこ)と、大山捨松(すてまつ)という2人の女性を起用しました。 

 大山捨松は、津田塾の創始者である津田梅子らとともに、明治4年にわが国最初の女子留学生として渡米しましたが、皇后は出発に先立ち女子留学生たちを宮中に召し、

 

 女子にして洋学修行の志を立てられたことは、誠に殊勝なことです。やがてわが国にも女学校が創建されることでしょうが、皆さんは帰国後、婦女の模範となるよう、どうか勉学に精励されますように。

 

と激励されました。梅子や捨松はその御心を体し、帰国後女子教育界の先覚者として多大な貢献を果たし、みごとに皇后のご期待に応えたのでした。

 さて宮内省は約1年間を費やして学則や授業内容を検討し、18年10月に華族女学校が開校しました。今までの生徒数の約3倍近くもの生徒が集まり、校長には土佐藩出身で陸軍中将の谷干城(たにたてあき)が就任し、下田歌子は幹事兼教授を命じられ、校長事務を代行しました。捨松は陸軍卿大山巌夫人という公的な立場にあったため、準備委員の仕事が終っても教壇に立つことはなく、陰の協力者として尽くしました。

 華族女学校の開校式に臨まれた皇后は、次のようなお言葉を賜りました。

 

 女子はよく父母舅姑(しゅうと)につかえ、夫を助けて一家のことをおさめ、母としては子を家庭のうちで教育する義務がありますから、それにふさわしい学識が不可欠です。近年各地に女学校が設立され、このたび特に華族のために本校を新設するのは、こうした趣旨によるものです。入校の女子は諸科の学術に熟達するのみならず、道徳の基本に則り、孝順、貞烈、慈愛の徳を修め、国家の教育理念にかなう学問を積まれるよう期待します。また教官は女子教育の大任を自覚し、教授の方法に注意し、その学科の要領を習得させるよう務めてもらいたい。開校の式に臨み所思を述べて、前途の進歩を望みます。

 

【明治神宮聖徳記念絵画館壁画「華族女学校行啓」】

華族女学校の創設