内廷改革はみずからの手で
明治維新は五箇条の御誓文にうたわれたように、旧来の悪い慣習をあらため、天地の公道に基づくことを理想のひとつに掲げていました。この理念によって、明治の初年から政治や経済、外交などの諸分野では、めまぐるしい改革が断行されましたが、宮中奥深くの慣習はいまだ旧態依然としていて、容易に改善することができませんでした。その最大の要因は、女官たちが古い慣例を楯にして、維新政府の政策をかたくなに拒んだためです。しかし明治4年8月と翌5年5月の大改革によって、弊害が全く刷新され、宮中は新時代にふさわしい体制にあらためられたのです。
改革には、三條実美や岩倉具視、西郷隆盛らが中心となって尽しました。とくに西郷は、同藩の親友吉井友実(ともざね)と協力して積極的に推進しました。この結果、かつて天皇・皇后の側近には公家出身の者しかお仕えできなかったのですが、各藩の武士出身の質実剛健の人々が多数採用されることになり、女官の多くが罷免されました。
皇后は当初、政府が宮中のことに注文をつけることを好まれませんでした。
ある日、木戸孝允・西郷隆盛らはそろって皇后のところに参上し、
「すでに政府の諸政を改革し、経費を節減しましたので、この上は陛下にも、奥向きの刷新をおこなっていただきます」
と申し上げました。すると皇后は威儀を正されて、
「私は陛下にお仕えして以来、その地位と本分を守るように努め、政府の問題に干渉したことはありません。それなのにあなた方は私に、奥向きの費用を節減せよと要求しました。私がどうして、そのようなことを言われなければならないのですか」
と厳しくおっしゃいました。いつになく厳しい皇后のご様子に、一同は返す言葉もなく恐縮してしまいました。もとより皇后は、西郷らの進言を拒まれるつもりはありませんでしたが、22歳のお若さ、それに生来の凛然(りんぜん)としたご気質で、この時ばかりはお気持ちを露わにされたのでしょう。
しかし、その数日後、皇后はふたたび木戸・西郷らを召し、今度はおだやかなお顔で、
「過日は費用節減の要求がありましたが、私はあなた方に干渉される立場ではないので、気の毒ですが要請はしりぞけました。しかし、確かに宮中においても費用の節減は必要です。国費多端の時節、あなた方の苦しい心中を察し、改革をおこないたいと考えます。しかし、これは決してあなた方の要求に基づくものではなく、私の意志でおこなうのです」
とおっしゃいました。元勲らもこのお言葉にはたいへん感激したということです。
さらに5年5月の改革のとき、皇后は徹底した内廷の刷新をご決断になりました。
「奥向きのことは、自分が一手に処理する」
という確固としたご信念により、旧来の典侍以下女官36名を罷免されたのです。
宮中改革にあたった関係者の苦心はもちろんですが、何よりも皇后のご意志によって、空前のご改革が果たされたのでした。
そればかりでなく、皇后は罷免された女官に心から同情され、
「国のためとあらば、悲しみも忍ばねばならぬ。あの人たちをねぎらって遣わすように」
とおっしゃって、お手許金とお手まわりの品々を賜り、慰労のお気持ちを伝えられました。
【昭憲皇太后御肖像】