皇后冊立――簡素なご婚儀
ご容姿が美しく、お振る舞いが上品でお淑(しと)やかであるばかりでなく、人一倍熱心に学問に励まれる姫君のご様子は、日に日に周囲の評判となりましたが、不幸にも文久3年(1863)11月、14歳の時に父君を失い、その後父のごとく慕われていた兄・実良も慶応4年(明治元)4月に亡くなり、一條家は深い悲しみに暮れました。
しかしこれより先、壽栄君(すえぎみ)の評判はついに宮中にも達し、慶応3年(1867)5月14日、明治天皇のお后に迎え入れたいというご内意が伝えられました。
5月26日からは、有栖川宮幟仁(ありすがわのみやたかひと)親王に入門して和歌をお学びになりました。このとき姫君は、これから先歌道に精励することを誓う文を親王に呈し、また「寄道祝」と題して2首を詠まれています。
6月27日、姫君は宮中にはじめて参内し、天皇とお会いになりました。姫君と盃を酌み交わされた天皇は、その容姿やそぶりの美しさに、すっかり魅了されてしまわれ、翌28日には、兄・一條実良のもとに勅使が遣わされ、正式にお后に迎え入れることが伝えられました。
そして翌明治元年12月28日、一條家から宮中にお入りになり、ご婚儀が営まれ、皇后となられました。時に19歳でした。この日はことに寒さが厳しく、夕方には雪が降りはじめました。あたりは一面真っ白で一点の汚れもなく、まるで天地が清められたかのようです。
両陛下に長くお仕えした典侍(てんじ)高倉壽子(としこ)は、当時の様子を次のように語っています。
明治元年12月28日、いよいよご婚儀が執り行われましたが、その折の皇后さまのお美しかったこと、今でも目の前にありありと浮かんでまいります。十二単につややかな黒髪を垂髪に遊ばし、きらめく釵子(さいし=かんざし)を頭につけられたお姿は、まるでお雛さまのようでした。まことにおめでたいことですが、何しろ内外多事、一日も予断を許さない時節のことですから、儀式はすべて質素で、別段のお祝いごとはございませんでした。いつもならばご慶事に、国内が歓呼の声にさんざめくのですが、内々に儀式をお済ませになったのは、国歩多難の時勢に両陛下が、並々ならないご苦心を経験されたことを物語っており、まことにおそれ多いことでした。
これより皇后は、天皇のご信愛を受けながら、新生日本にふさわしいお后として、誠心誠意ご内助に尽くす道程を歩まれたのでした。
【明治神宮聖徳記念絵画館壁画「皇后冊立」】