稲穂の実り
たらちねの庭のをしへをよそにして
すみれつみしも昔なりけり
昭憲皇太后は小さい頃から聡明でいらっしゃいましたが、どちらかと言えばやんちゃで、決しておとなしいほうではなかったそうです。
学問の先生は貫名海雲(ぬきなかいうん)という人で、昭憲皇太后は7歳の時から、姉君たちと机を並べて漢学の勉強を始められました。当時の勉強の方法は、最初の3、4年は漢文の素読(そどく=声を立てて読むこと)をおこない、意味が少しずつわかってきた時期にはじめて講釈をするというものでした。姉君はこれにしたがって素直によく勉強しましたが、昭憲皇太后は論語の素読がお嫌いで、はじめのうちはキチンと机に座られましたが、1カ月、2カ月と経つうちに我慢できなくなり、姉君の分が終わりご自分の番になる頃には、お庭の植え込みの中に駆け込んでお隠れになるのでした。
「また小さいお姫さまは、隠れておしまいになった」
「何というお方です。若さまでもこんな方はありません」
とお付きの人々が小言を申し上げますが、姫君はただモジモジしていらっしゃるのでした。
父君もあきれ果てて、
「こんな子は仕方がないから田舎にでもやってしまわなければ」
と嘆きました。
8歳になられた春の終わりのこと、やはり植え込みの中にお隠れになったところを見つけられ、論語の素読が始まりました。
このとき姫君がお耳にしたのは、「苗にして秀でざるものあり、秀でて実らざるものあり」という句でした。
「これはどういう意味か」
「お姫さまが素読をすべてお済ませになったら、意味をご講釈いたしましょう。それまでお待ちあそばせ」
と師の海雲が申し上げますが、姫君は首を横に振られました。
「そう申さずに、話してもらうわけにはいかないか。ちょっとだけでよいから」
「それでは申し上げましょう。田を耕し、苗代を作り、種を蒔き、それが苗になると田植えをし、田の草を取り、肥料を与え、稲が実ると刈り入れをし、それが米になって姫さまがたのご飯になります。このように農民は、大変な費用と労力と時間をかけて、やっとお米に仕上げるのです。
こうして骨を折って育てた稲のなかには、病気にかかって枯れてしまったり、病気にならずにやれやれと思って籾(もみ)をひいてみると、殻ばかりで実のないものもあります。そのお米も、撞(つ)けば粉米になって鶏の餌(えさ)にしかならないものもあり、立派な米になって我々の命をつないでくれるものもあり、もっと立派なものは種として大切に残され、再びよいお米になるのです。
人も、同じように教えても、つまらない人になったり、普通の人になるものもあり、優れた人物に成長するものもございます。さて、お姫さまは何におなりあそばしますか」
すると姫君は、
「種になる」
とお答えになりました。
「ああ結構でございます。どうぞよく実る種におなりあそばせ。けれども学問の嫌いな人は、とても種にはなれません。学問が好きにならなくては」
姫君はしばし考え込まれ、
「本当の田植えが見たい」
とおっしゃいました。
そこで大井川の畦の別邸近くの田植えにお連れすると、一生懸命ご覧になって、お付きの者が、
「いくら見ていても同じでございますから、もう帰りましょう」
と申し上げても、なかなかお帰りになりませんでした。
苗うゑて八束(やつか)たり穂をみるまでに
いたつく人を思ひこそやれ
それから後、姫君はがぜん発奮されて、熱心に読書に励まれました。
「お小さい時からご学問ばかりお親しみになっては、かえってお身体が悪くなってしまうのでは」
と、家の人々が心配するほどでした。