父君の訓戒
一條家に仕えた松田はるゑは、昭憲皇太后ご幼少のころを次のように語っています。一條家の躾(しつけ)の一端がうかがわれます。
陛下はお小さいとき魚がお嫌いで、京の水菜の漬けたものや浅草海苔など、あっさりしたものがお好きでした。しかし一條家はなかなか厳しいご家庭で、三度のお食事も、ご自分の好きなものを召し上がるというわけにはまいりませんでした。私どもはそっと海苔などを買っておいて、姫君が居間で一人で朝ご飯を召し上がるときに、水菜の上にその海苔をふりかけて差し上げると大変喜ばれたものです。
松田はるゑは、次のようにも述べています。
ご気質はどちらかと申し上げるとご利発なせいか、勝ち気なご性分でした。これは何事にもよく現れましたが、私が24歳の時、将軍家(慶喜公)から一條家に、侍女を少し貸してくれと依頼があり、私は一條家から二条城へ上ることになりました。その時おすうさま――本当は壽栄君(すえぎみ)ですが、私どもはそう申しておりました――が、わざわざ私をお部屋にお呼びになりまして、
「うちの屋敷からまいるからには、少しでも先方のお取り扱いがよろしくないと思ったならば帰ってまいれ。もし、慶喜さまがお歌でも詠めとおっしゃったら、決してつたない歌を詠むようなことがあってはよろしくないから、必ず私に見せよ。直して届けてあげる」
と、それはそれはきつくお申し付けになりました。
さて、父・忠香は、折りにふれて子女たちに訓戒(いましめ)を与えたということです。
たとえば新しい着物をあつらえた時、子供たちにむかって、
「下々では、簡単に衣装を新しくすることは出来ないのです。親が着たものを子に伝え、兄の着たものを弟に、それをまたその弟にと伝えて、もう破れて繕(つくろ)えなくなったら初めて新しいものを用意するのです。少し古くなったからといって、すぐ新しいものを欲しがったりしてはいけません」
と、さとされました。さらに、
「たとえ一枚の着物であっても、綿を植えて糸をとり、これを織って布地にしたものを裁縫し、やっと衣服が出来上がるのです。また絹であれば、桑を植え蚕を飼い、繭から糸をつむいで織らなければなりません。この間にどれだけ多くの人がたくさんの辛苦を費やすことか。だから新しい衣服を着るときはそれを作った人の苦労を思い、感謝を忘れてはいけません」
と、ねんごろに説かれました。昭憲皇太后が終生質素倹約を旨とされて、すすんで国民にその模範を示されたのは、ご幼少期の訓戒を深く御心に刻まれていたからと思われます。
また、昭憲皇太后は地震がたいへんお嫌いであったということですが、忠香はこれについて、次のように教え導かれたということです。
「人の性格というものは、大事が起こった時に現れやすいものです。いざという時に、狼狽(ろうばい)したり動じたりしない強靭(きょうじん)な精神を養わなければなりません。そのためには、正しい学問をし、いにしえの賢人の教えを自分の精神の基礎としなければなりません」
のちに昭憲皇太后は、ご幼少時のことをふりかえられ、次のように詠じられています。
さとゐせし昔はゆめとなりぬれど
おやのいさめはわすれざりけり
【昭憲皇太后が幼少の頃に大事にされた御人形】