ご降誕

 昭憲皇太后は、嘉永3年(1850)4月17日(太陽暦5月28日)、従一位左大臣一條忠香(ただか)の第三女として京都でご誕生になりました。はじめの御名は勝子(まさこ)といい、富貴君(ふきぎみ)と称されましたが、後に壽栄君(すえぎみ)と改められ、入内(じゅだい=皇后として正式に宮中に入られること)にあたり明治天皇より美子(はるこ)と賜りました。

 一條家の屋敷跡は京都御苑の一角(現在の宮内庁京都事務所付近)にあり、その西南の隅に産湯(うぶゆ)の井戸である縣(あがた)の井が残されています。

 母は伏見宮邦家親王の二女藤原順子(よりこ)で、生母は一條家の医師・新畑種成の長女民子(花浦の方)です。

 乳母は近江国滋賀郡伊賀立村の農家・藤岡作右衛門の娘・ヤスといいました。性格が温良で、勤めを忠実に果たしましたので、忠香をはじめ花浦の方にたいそう気に入られ、皇后となられた後も名を岩ケ根と賜ってお勤めしました。

 ご兄弟姉妹は兄君の実良(さねよし)と、姉君の峰君、美加君、千代君、多百(たも)君です。峰君は三條家からの養女で後に熊本藩主細川韶邦(よしくに)に嫁ぎ、美加君は今出川家からの養女で、後に徳川慶喜の正室となりました。また千代君は越前毫摂寺(ごうしょうじ)門跡に、多百君は大和郡山藩主柳沢保申(やすのぶ)にそれぞれ嫁いでいます。

 

【縣の井】

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