神宮のことを第一に
明治天皇のお歌に、
わがくには神のすゑなり神まつる
昔のてぶりわするなよゆめ
とあります。天皇は国家の君主として、ご生涯にわたりよく敬神の道を実践されました。
例えば毎年元旦には、まだ人が眠っている暁のころに神嘉殿(しんかでん)において四方拝(しほうはい)という祭りを奉仕し、五穀の豊穣、国民の幸福をお祈りされるのをはじめ、1月4日の政事(まつりごと)始めには各大臣を内閣に集めて、まず第一に伊勢の神宮のことをお聞きになり、それから一般政治のことが報告される厳粛な儀式をおこなわれました。それゆえ国家の大事にあたっては伊勢の神宮にご参拝になり、祭典や奉告の儀式をなさいました。また、歴代天皇の御陵の調査や保存・維持などにお心を尽くされ、敬神崇祖(けいしんすうそ)の模範をお示しになったのです。
天皇はこのように敬神の御心が深く、明治元年の東京行幸の途次に関(せき=現在の三重県鈴鹿郡関町)に遙拝所を設けて神宮をご遙拝になり、翌年には改めて参拝されました。
これは歴代天皇の中で初めてのことでした。それまでは勅使が天皇の命を受けてお参りするのが通例でしたが、明治天皇がこのような先例にない道をおひらきになったことは、皇祖・天照大御神(あまてらすおおみかみ)をおまつりする伊勢の神宮への深い崇敬の大御心にほかなりません。
こうした御心は、明治26年に海軍力の増強を図るために、宮中の経費を大幅に削減して軍艦製造費に充てることになった時、宮内大臣に、
「皇祖皇宗の祭事ならびに山陵(=墓所のこと)や皇太后の供御(くご=飲食物のこと)に要する費用については少しも減じてはならない」
と命じられて、たび重なる皇太后からの費用削減のお申し出も、ついにお聴きにならなかったことにも如実にうかがえます。
とこしへに民やすかれといのるなる
わが世をまもれ伊勢のおほかみ
とありますように、天皇は神宮ご参拝の折々に、いつも国民の幸せと国の安泰をお祈りになりました。
【聖徳記念絵画館壁画「神宮親謁」】