孝明天皇のご遺志
ご幼少の皇子は、ご生母のもとで日課を終えて昼食を済まされると、まず准后(じゅごう=英照皇太后)の御殿で行儀よくご挨拶をしてから父帝(孝明天皇)の御殿に上がりました。父帝からは、毎日「郭公(かっこう)」とか「秋月」といったお題をいただいてお歌を清書され、幟仁(たかひと)親王が拝見して良いお歌には点を入れました。孝明天皇はその書をご覧になって、「この撥(は)ね口は立派である」とか、「この点には力がある」というように皇子の向上をお喜びになりました。
安政4年、6歳のときに皇子は、
月見れば雁がとんでゐる
水の中にもうつるなりけり
とお詠みになったと伝えられます。また7、8歳のころには、
曙に雁帰りてぞ春の日ぞ
声を聞きてぞ長閑(のどか)なりけり
と詠まれ、これを孝明天皇が、
春の日に空曙に雁帰る
声ぞ聞こゆる長閑にぞなく
と添削なさいました。こうした父帝のご指導によって次第にお歌の方も上達されました。
明治天皇は父帝・孝明天皇が崩御のとき深い悲しみに沈まれながらも、ご追悼のお歌を40首あまりお詠みになり、中山忠能(ただやす)にお見せになりました。その中には皇位を継承されるにあたってのご決意を詠まれたものが3首あったといわれています。幕末の多難な時代に国の行く末を深くご心配になり、政務に尽瘁された孝明天皇から知らず知らずのうちに多くのことを学んでおられたのです。
たらちねの親のみまへにありとみし
夢のをしくも覚めにけるかな
これは明治44年のお歌ですが、父帝と一緒に楽しくお話などをしていらっしゃる夢が「惜しいところで覚めてしまった」という、父帝へのかぎりない敬慕のお気持ちが偲ばれます。
たらちねのみおやの御代のむかしをも
ことあるごとにかたりいでつつ
たらちねのみおやの教あらたまの
年ふるままに身にぞしみける
父帝をお詠みになった多くのお歌にうかがわれるように、ご幼少の頃に深く脳裏に刻まれた孝明天皇のご遺訓は、年を経る毎にいっそう深く思い出され、つねにご自身の精神的な拠り所になさったものと思われます。
とりわけ、中山邸から宮中へ移られた当時の朝廷は、幕府の圧迫のために財政的に最も困難な生活を余儀なくされた頃です。
あらたまる事の始にあひましし
みおやの御代を思ひやるかな
と明治37年のお歌にありますように、あの幕末の困難な時勢に比べて、今日の輝かしい時代を迎えることができたのも、祖宗をはじめ父帝のお力のたまものであると、心から感謝をなさったものと思われます。
【後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ=孝明天皇の御陵)】