乃木は感心じゃ
うつし世を神さりましし大君の
みあとしたひて我はゆくなり(乃木希典)
明治天皇の御大葬が青山葬場殿(現在の神宮外苑聖徳記念絵画館敷地)でおこなわれた大正元年9月13日、午後8時に御柩が宮城(きゅうじょう=天皇のお住まい)からお出になる時を期して、乃木は静子夫人とともに自刃(じじん)しました。
明治天皇は乃木希典を心から親愛し、篤い信頼を寄せられました。
陸軍の演習があると彼は高齢になっても必ずその場に参加し、いつでも兵士と一緒に第一線で観戦しました。この様子を天皇はいつもご覧になっておられました。
ある年の特別大演習のとき、天皇は藤波言忠(ふじなみことただ)に、
「乃木は他のものと心がけが違う。他のものは休職すれば軍事から次第に遠ざかり、遠方の演習地などには出かけぬ。また出かけても後方に控えているのみであるが、乃木はどんなに遠いところにでも必ず来ている。そして兵士と労苦を共にしていつも第一線で観察している。乃木は感心じゃ」
とおっしゃいました。
明治39年1月、乃木は日露戦争における軍功によって軍事参議官に任命されました。その後、彼を参謀総長に推す声がありましたが、明治天皇は、
「乃木には特別な任務を考えている」
とお許しがありません。
それは乃木を学習院院長にというお考えでした。乃木は当初、その話を固辞しましたが、天皇の熱意をうけて明治39年8月に宮内省御用掛を拝命し、学習院出仕に任じられ、翌40年1月に院長となりました。
いさをある人を教(をしへ)のおやにして
おほしたてなむやまとなでしこ
乃木は天皇のご信任と教育刷新のお考えに感銘しました。そして教育の基本は実践躬行(じっせんきゅうこう=理論や信条をその通りに自分自身で実際に行うこと)にあるという信念から、老体をかえりみず寮で学生と寝起きを共にし、日夜を分かたず指導をおこないました。さらに昭和天皇をはじめ皇孫方を教育するという大任も託されていたのでした。
【乃木希典】
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
