日本赤十字社事業への大御心
わが国に日本赤十字社が設立される発端は、明治10年の西南戦争までさかのぼります。西南戦争は明治維新の時期における国内の動乱としては、もっとも大規模で、死傷者も広範囲にわたりました。これには皇室においてもたいへん心を悩ませました。
ところでこれより少し前、佐賀藩出身の佐野常民(つねたみ)が、藩主の命を受けてフランスのパリに赴き、ヨーロッパの赤十字の活動について学んだり、プロシア(現在のドイツ連邦の一部)とフランスの戦争における、赤十字社の救護活動を実際に見学して帰国しました。そして西南戦争が起こったとき、大給恒(おぎゅうゆずる)ら志ある友人たちと話し合って、ヨーロッパの赤十字活動を模範に、負傷者救護を目的とする結社「博愛社」を創設し、負傷者の治療にあたりたいと願い出ました。皇室ではそれを許可され、佐野たちはさっそく、戦地である九州、さらに大阪にも臨時病院を設置して、救護活動に尽くしました。このことを伝え聞かれた明治天皇は彼らの事業をたいへん評価され、明治10年の8月に、金1,000円を賜りました。また、英照皇太后と皇后は、博愛社にぶどう酒などのご褒美の品を賜って、事業を奨励されました。
その後博愛社は、伏見宮彰仁(ふしみのみやあきひと)親王を総裁として、事業を発展させましたが、とくに明治16年以降は、皇室から毎年300円のお手許金を頂戴することになり、これが博愛社の基本的な活動資金となりました。
そして20年3月、天皇皇后両陛下は、博愛社を皇室のご保護のもとに運営されるご意志をお示しになり、5月20日には、名称を「日本赤十字社」と改め、万国赤十字社本部に加入することが決まりました。
以後日本赤十字社には、毎年両陛下から下賜金があり、とくに23年7月には、病院(現在の日本赤十字社医療センター)建設敷地として、東京府内の南豊島御料地内の15,000坪が下賜されました。
皇后はその後も赤十字活動にたいへん関心を寄せられ、毎年の下賜金のほか、日本赤十字社総会にひんぱんにお出ましになり、病院にも行啓されて、とくに傷病兵を熱心に慰問なさいました。また貧しい救護患者に対して、折々に衣服を下賜されたのでした。
あやにしきとりかさねてもおもふかな
寒さおほはむ袖もなき身を
やむ人を来て見るたびに思ふかな
みないえはてて家にかへれと
着るものも充分に整わず、冬の寒い時期に病床で過ごす国民に衣服をさしのべ、すべての患者が早く快復して、みんな家にかえって健康で楽しい暮らしを送って欲しい。病院を訪れるたびに、国民のことを心配しておられた皇后の御心が、これらのお歌からつぶさにうかがわれます。
【聖徳記念絵画館壁画「赤十字社総会行啓」】