兵士たちへの思い

 

 日露戦争開戦から終戦までの約2年間、天皇はほとんど宮中からお出になりませんでした。いつもですと午前中だけ表御座所にお出ましになって政務を執られるのですが、戦時中は午後もお出ましになり、夜になってから奥にお入りになることが多くなりました。御前での会議は頻繁におこなわれ、また大臣たちはひっきりなしに相談にまいりますので休憩時間は全くありませんでした。特に戦地の情勢については、

「戦局の推移は随時報告せよ」

とのご指示があり、深夜どんなに遅くでも報告することになっていました。

 この時期、天皇は毎日数十首づつのお歌をお作りになりましたが、その多くは戦地の兵士たちを心配するお気持ちをお詠みになったものです。

 

  しぐれして寒き朝かな軍人(いくさびと)

       すすむ山路は雪やふるらむ

 

 日露戦争のはじまる以前の御座所では、冬にはストーブを使用しておりましたが、明治37年2月10日の開戦と同時に取り外されました。そして朝夕の冷え込むときでも、火鉢と小さな手あぶりをお使いになるだけでした。

 また38年の夏には次のようにお詠みになっておられます。

 

  暑しともいはれざりけり戦(たたかい)の

            場(にわ)にあけくれたつ人おもへば

 

  この頃、宮内大臣田中光顕は宮中の職員にこう漏らしました。

「戦争中、国民一人一人がそれぞれの立場で一生懸命に努力していることはもちろんだが、それにつけても恐れ入るのは、陛下はこの暑いのに大元帥の軍服をきちんとお召しになって、御学問所において政務をお執りになっていることだ。われわれは暑ければ上着を脱いで脚を投げ出しておればいいが、陛下は厳然として足組もなさらず、扇風機も団扇(うちわ)もお使いにならない。そのうえ昼食が午後2時、3時を過ぎることも珍しくない。こんな状態で休憩もほとんどなさらないのだから、まことに恐れ入るばかりである」

 

  夏しらぬこほり水をば軍人(いくさびと)

       つどへるにはにわかちてしがな 

  

いくさ人いかなる野べにあかすらむ

      蚊のこゑしげくなれる夜ごろを

 

 夏の暑い日には、せめて氷水の一杯でも飲ませてやりたい、夜には蚊に悩まされてはいないだろうかと、天皇は戦地で戦う兵士たちのことをいつも心配しておられました。

 日露戦争の戦病死者は十数万人にものぼりましたが、天皇は彼らの写真と名簿にすべて目を通されました。そして、

「佐藤という名前のものがたいへんたくさんあるな」

「加藤という名前も多い」

などとおっしゃり、時には、

「この名は何と読むか、どういう意味か誰かにたずねてみよ」

とお聞きになって、戦病死者全員の名前を詳しくご覧になったのでした。

 

【除兵隊像】

兵士たちへの思い