敬愛は父のごとく~岩倉具視
明治神宮聖徳記念絵画館に展示されている北蓮蔵(きたれんぞう)筆「岩倉邸行幸」の画は、いまや近代日本の君主として立派に大成されつつある明治天皇と、死に臨む王政復古を成し遂げた老将との最後の対面を描いたもので、まことに印象的なものです。
岩倉は、明治維新の元勲のなかでいち速く明治天皇の君徳修養を唱えた人物の一人です。
明治元年の東幸(東京へのお出まし)は、戊辰戦争の最中いまだ江戸が平定されたばかりで、関東以北には新政府の立場は十分に理解されていない状況で実施されました。こうした時にお若い天皇の親政を補佐して道を誤らず、君徳のご修養に鋭意をつくすことは決して容易なことではありませんでした。この時天皇は岩倉に、
「卿は行幸にあたって私の供をし、そばを離れないで至らないところを助けてほしい」
と、たいへんな信頼をよせられました。
この信頼に応えて、岩倉はそれ以後も天皇をよく補佐し、特命全権大使として欧米12カ国を巡回して条約改正の予備交渉をおこない、帰国後にも憲法制定や国会開設の方針を模索するなど、国家の発展に多大な貢献を果たしました。しかし明治16年6月に胸部神経痛という重い病におかされました。
明治天皇は7月5日と19日の2回、お見舞いのため岩倉邸に行幸されましたが、その様子を養子の岩倉具綱(ともつな)は次のように回想しています。
19日には早朝に行幸の通知をいただきましたが、陛下はこちらの準備もままならないうちにご到着なさり、ご休憩所にも入らず直ちに具視の病床に臨まれました。
そして具視の容態を目の当たりにして落涙され、たった一言、
「どうじゃ」
とお言葉をかけられました。具視も言葉なくただ両手を合わせて、涙を流して陛下を拝するばかりでした。
岩倉具視は天皇のお見舞いを賜った翌日、7月20日の朝に逝去しました。
天皇は岩倉の逝去にあたり国葬の礼をおこなうことを許され、次のような勅語を下されました。
国家の重大な危機に純忠をもって維新の偉業に貢献した卿は、まことに国家の支えであり国民の模範でありました。若くして皇位を継承して以来、私はあたかも父親のように卿を敬愛しておりましたが、逝去に接し哀しみの念をかくすことができません。ここに、特に太政大臣を贈ります。
【聖徳記念絵画館壁画「岩倉邸行幸」】