気骨ある養育係――中山忠能
明治天皇の外祖父・中山忠能(なかやまただやす)について、幕末の志士・橋本左内(はしもとさない)は「公家のなかで最も男らしい人物」と評価しています。
明治維新当初の財政難を解決するために、参与の横井小楠(よこいしょうなん)が皇室の予算を削減することを主張しましたが、忠能は「臣下みずからが節約の努力をしないで、陛下にそれを求めるとは何事か」と、反対の意見を述べたのです。忠能はこのように「まずおのれを尽くして君に求める」ということを主義としていました。明治元年の東京行幸に公卿たちがお供することになったとき、岩倉具視は忠能に対して、立派な君主に大成するよう天皇の補佐に努めてほしいと、絶大な信頼を寄せました。
ある時忠能は、とても不機嫌な面もちで宮中から帰宅して、息子の孝麿(たかまろ)に次のようにいいました。
「私は皇子のご誕生から今まで一生懸命ご養育に尽くしてまいったが、今日を限りにお目にかからず、奉仕を辞める旨の置き手紙をしてきた。皇子は今日、何ということかご学問中に黙って席を立ち奥へこもってしまった、そんな規律のないことでは学問が身につくはずがない。もはや私ごときには手に負えぬ」
孝麿はご幼少の皇子にそのように申してもと、いろいろ説得しましたが、忠能はかなり立腹の様子で聞こうとしません。
そこに御所から急の使いが来て、「皇子の命によりすぐに参内(さんだい)するように」と告げます。忠能は頑固にことわりましたが、孝麿に厳しい口調で、
「それでは臣としての道が立たないでしょう」
と説得され、ようやく御所に参内することになりました。立腹もいまだおさまらない忠能に皇子は、
「おまえの手紙を見たが、ほんとうに私が悪かった。もうこのようなことは繰り返さないから、どうか短気を起こさないで私の面倒を見てほしい」
とおっしゃったのです。今までの不満はどこへやら、むしろ皇子の英明な心に感激して忠能はすっかり機嫌を取り直して家に帰ると、
「やはり殿下はすぐれた君主になるお方だ、自分は軽率であった」
と、涙ながらに話しました。
忠能は誠実な人でしたから、このように一生懸命になって皇子の教育に尽くしましたし、後年には明治天皇の命によって明宮嘉仁親王(はるのみやよしひとしんのう=大正天皇)の養育係も担当いたしました。
【中山忠能】
『明治大帝御寫真帖』より