神道一般
- Q1
いつから七五三が始まったのですか?
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A
平安時代中ごろ公家の間で三歳から七・八歳までの男女のお祝いの儀式が行われていたのが七五三の起源になるようです。中世になりますと「髪置(かみおき)」といってそれまで髪を短くしておいたのを、男女三歳にして伸ばしはじめる儀式が行われました。その他にも「帯解(おびとき)」「髪立(かみたて)」「紐落(ひもおとし)」などの行事も行われたようです。
時代が下るとこれらの儀式は武家社会でも行われ、また今日のような七五三詣は江戸時代からで、しかも江戸を中心にした関東地方に多く、関西ではあまり行われていませんでした。また五代将軍徳川綱吉の子徳松(とくまつ)君がお祝いをしたことから、それにあやかって一般庶民にも広まり、呉服問屋で子ども向けの商品を七五三詣で売り出してから盛んに行われるようになりました。しかしまだこの頃には「七五三」という呼び方はなかったようです。
「七五三」の語が使われたのは明治時代からで、明治11年の『朝野新聞』に「大晦日に七五三の祝い」の記事がのっています。そして今のような賑わいになったのは意外にも大正時代からだそうです。
- Q2
なぜ七五三のお祝いをするのですか?
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A
簡単に説明しますと赤ちゃん(幼児)から子ども(児童)になることをお祝いする行事。つまり「人生の通過儀礼」の一つなのです。昔から「七つ前は神のうち」といって七歳までの子どもは、まだこの世にその命が定着していない状態であると考えられていました。ですから昔は七歳未満の子は人別(にんべつ)帳(戸籍)に載せませんでした。
七歳になってようやく人間の仲間入り「一人前」と考えられ、そのことを氏神さまにお参りして「氏子(うじこ)入り」の奉告をし、またすこやかな成長を祈願したのでした。その通過儀礼が三歳から七歳の間に行われたのです。
- Q3
なぜ11月15日に七五三詣をするのですか?
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A
七五三は正月にも行われたりして必ずしも11月15日だとは限らなかったのです。陰暦の11月15日は十五夜(満月)にあたり古来より霜月(しもつき)の祭の日でした。この日に農家では収穫に感謝するお祭を行いましたが、これは現在宮中と全国の神社で行われる「新嘗祭」(にいなめさい・稲の収穫を祝い神恩に感謝する祭り現在11月23日・勤労感謝の日)にあたります。
また中国の古い思想「陰陽道<おんみょうどう>」でこの日が年中最上の吉日「一陽来復<いちようらいふく>」(悪い事がつづいたのち、ようやく運が向いてくること。冬がおわり春がくること。)の一つにもなっています。このようなおめでたい日でありますから、この日に七五三参りをすれば、神のご加護も多く感じられたのでしょう。また七五三をたすと十五になることも関係しているようです。
そして最も決定的といえるのは徳川五代将軍綱吉(つなよし)の子、徳松(とくまつ)君の祝儀が天和(てんな)元年(1681)の11月15日であったことから、これにあやかって広く庶民の間で行われたそうです。しかし現在では11月15日にこだわらず、その前後の都合の良い日に参拝する傾向が強くなってきていますので、この日に絶対お参りしなければいけないということではありません。
- Q4
七五三は男女それぞれ何歳で祝うのですか?
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A
七五三の祝いを、古くは「髪置(かみおき)」「袴着(はかまぎ)」「帯解<おびとき>(紐解<ひもとき>)」の祝いといっていました。髪置きは三歳の男女児の祝いで、もう赤ん坊ではないという意味から、今まで剃っていた髪をこの日から伸ばし始める儀式です。
袴着は五歳の男児の祝いで、初めて袴を着ける儀式、帯解き(紐解き)は七歳の女児の祝いで、着物の着け紐を取り去り帯に替える儀式です。
現在ではその年齢にあたる子どもに晴れ着を着せて、11月15日に神社へ参詣し、子どもたちの生長と健康を感謝するとともに、今後の生長とさらなる健康を祈願する儀礼となりました。
- Q5
七五三は数え歳でお祝いするのですか?
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A
本来は数え年で祝いますが、最近では満年齢で祝う割合が高くなりました。ちなみに「数え年」のかぞえかたですが、戦前まで日本人はみんな正月元旦になれば、年が一つ増えたのです。例えば平成8年12月31日に生まれた赤ちゃんは、生まれたその日から数え年一歳となり、翌日の平成9年1月1日から数え年二歳となり、たった二日間で二歳になるわけです。(満年齢の数えかたですと、まだ〇歳です。)
- Q6
なぜ三歳・五歳・七歳にお祝いするのですか?
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A
地方によっては兵庫県や熊本県のように四歳で行うところもあり、必ずしも七五三の歳に祝うとは限らないのです。七五三の数で行なうのは中国大陸の古い思想から来ているようです。
陰陽説の中で奇数を陽数(三・五・七・九)つまりめでたい数とする思想(例えば、3月3日はひな祭り<上巳(じょうし)の節句>、5月5日は子供の日<端午(たんご)の節句>、7月7日は七夕、9月9日は菊<重陽(ちょうよう)>の節句)があり、それに基づいていつしか七五三に定着したようです。
- Q7
三歳は男女両方のお祝いですが、なぜ五歳は男の子、七歳は女の子なのですか?
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A
本来は年に関係なく男女ともに行われていたようですが、樋口清之先生の説によりますと、当初は三歳は女子、五歳は男子のお祝いだけで七歳のお祝いはなかったのが、七五三の数をそろえるため、江戸時代になってから七歳を女の物日(ものび)<祭日・祝祭日など特別な事の行われる日>として、女子は三歳と七歳の2回やることになったそうです。(樋口清之著『まつりと日本人』)
また江戸時代末期に記された
『東都歳時記』に、11月15日、嬰児(えいじ)の宮参りは、髪置<かみおき>(三歳男女)、袴着<はかまぎ>(五歳 男子)、帯解<おびとき>(七歳女子)等の祝いなり。分限に応じて各あらたに衣服をととのえ、産土 神<うぶすなかみ>に詣し、親戚の家々を廻り、その夜、親戚知己(ちき)を迎えて宴を設く。
とあり、江戸時代のおわりには現在とほぼ同じような七五三が行われていたことがわかります。
しかし現在では七五三は年齢に関係なく男女とも行なっています。はじめにも説明しましたように本来は男女の区別なく行われていましたから、三歳はもちろんのこと五歳・七歳も男女ともに七五三詣を行なっても間違いではございません。
- Q8
千歳飴について教えて下さい
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A
飴の歴史は古く、中国では六世紀に製法が行われていたそうですが、日本では神武(じんむ)天皇(初代天皇)の御代に「たがね」と呼ばれる飴があったそうです。
下って平安時代にはすでに京都では売られていたそうです。そして元禄(げんろく)・宝永(ほうえい)<1688~1711>頃に江戸浅草に七兵衛という飴売りが、長袋にいれて「千歳飴」または「寿命飴」と書いて売り歩いたのが始まりで、飴ではもっとも長い歴史をもっています。
- Q9
神社、神宮、宮、大社の違いは何ですか?
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A
神社の呼び方には「○○神社」また明治神宮のように「○○神宮」、そして「○○八幡宮」や「○○大社」「○○社」など様々な呼び方があります。はじめに明治神宮のように「○○神宮」と称するものには、そのほかに熱田神宮・香取神宮・平安神宮などがありますが、これらは古代から皇室と深いつながりを持つ神社、あるいは天皇を祭神とする神社です。
また北海道神宮・英彦山神宮は戦後になって「○○神宮」を称しましたが、その際には特に御聴許を願い出た上で改称しています。そして「神宮」といった場合、これは伊勢の神宮を指します。「伊勢神宮」は通称で「神宮」が正式な名称です。
「○○宮」には鎌倉宮※1のように親王※2を祭神とする神社のほかに筥崎宮のように古来から「○○宮」と称する神社があります。また東照宮※3・水天宮※4・天満宮※5・八幡宮※6のように伝統的な呼称(神仏習合時代に成立した呼称が多いようです)に基づくものもあります。
つぎに「○○大社」については、かつての官国幣社制度※7の下では出雲大社だけが「大社」を称しました。しかし、戦後になってからは住吉大社・春日大社・諏訪大社・三嶋大社・富士山本宮浅間大社などのように、「大社」の呼称が増加しています。この基準としては全国に多数ある同名の神社の中で宗社にあたる神社であって、旧社格が官幣大社・国幣大社であることを基本としています。いずれにしても今日では、これら呼称の違いは神社の格の上下を律するというより、由緒に定められているものといえます。
「○○社」の称号は、大きな神社から御祭神を勧請した神社に用いられ、神明社※8や天神社※9などがあります。
※1鎌倉宮 護良(モリナガ)親王(後醍醐天皇の皇子)をまつる。明治2年鎌倉市二階堂に鎮座。
※2親王 嫡出の皇子および嫡男系出の皇孫である男子の称号。
※3東照宮 徳川家康をまつる神社。東照大権現ともいう。はじめは東照社と称したが正保3年(1646)日光の東照社が完成し、宮号を授けられて以後、全国に散在する東照社も東照宮と改称。日光および久能山の東照宮は後に別格官幣社となる。
※4水天宮
1.福岡県久留米市にある元県社。祭神は安徳天皇・建礼門院。舟人の守護神として尊信が篤い。全国水天宮の総本社。
2.東京日本橋にある神社。江戸時代、久留米藩主有馬頼徳が福岡の水天宮の分社として創建したのに始まる。水神または安産の神。
※5天満宮 菅原道真をまつった神社の宮号。北野天満宮・太宰府天満宮・大阪天満宮など全国各地にある。
※6八幡宮 大分県宇佐市に鎮座する宇佐八幡宮を全国八幡の総本社とする。一般に応神天皇・比売(ヒメ)神・神功皇后をまつる。源頼朝が鎌倉の鶴岡八幡宮を創建されてから武士の信仰が広まった。
※7官国幣社 平安時代に制定された神社制度。国から幣(ぬさ)が奉られる神社を官幣社、地方の国司から奉られる神社を国幣社と分けた。
※8神明社 中世以降、伊勢神宮の神霊をまつった神社。
※9天神社 菅原道真をまつった神社。
- Q10
三三九度の由来は何ですか?
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A
はじめに神酒についてお話しますが、神話にスサノオの神が八岐の大蛇に酒を飲ませて退治したことが出てますが、これは「酒」(サケ)の語源が「栄え」の意味のほかに邪気を「避け」るの意味があるからだと言われています。ですからお正月のお屠蘇や三月三日のひな祭りに飲む白酒、そして神社でのお参りのあとの神酒にはミタマをいただく意味と同時にハラエ(祓え)の要素があるのだと思います。また地方の村のお祭りでは神にお供えした神酒や食べ物を飲食する風習がありますが、これは同じ釜で煮炊きした食物を共食することによって非常に強い関係が生ずるという信仰に由来し、今でも「同じ釜の飯を食う」という言葉がありますが、これもこのような信仰からきています。よって結婚式の神酒は「夫婦固めの盃」「親族固めの盃」と呼ばれるように、新郎新婦だけでなく両家が同じ身内になることによってその繁栄を祈る意味がこめられています。
ちなみに神酒は「みき」といいますが「ミ」は接頭語で「御」、「キ」は「酒」の意で酒の美称または敬称の意味です。 さて三三九度についてですが、歴史的にはだいたい室町時代に伊勢流※1・小笠原流※2などの武家礼法によってその基礎ができたとされ、しかもこのころは結婚式だけではなく他のお目出度い儀式のときにも三三九度が行われていたようです。
ではなぜ三三九度(献)というのでしょうか?これは本来、三三九度の作法が
一盃 新郎→新婦→新郎
二盃 新婦→新郎→新婦
三盃 新郎→新婦→新郎
の順でつぎますが、要するに三つの盃で三献ずついただくので合計九献(三×三=九)となるわけです。
また三や五・七・九の奇数は昔からおめでたい数とされていて、三月三日は「ひな祭り」、五月五日は「こどもの日」、七月七日は「七夕」、九月九日は「菊の節句」などがおこなわれるのはこのような理由からで、結婚式もおめでたい事ですから奇数の数〈三三九〉が使われている訳です。(七五三詣も同じ)
ところが現在ではこの三三九度の作法は一般の神前結婚式ではほとんどおこなわれていません。一般の神社では
一盃・新郎→新婦
二盃・新婦→新郎
三盃・新郎→新婦
の順序でおこなわれ、これを「三献の儀」もしくは「誓盃の儀」と称しています。昔から「三三九度」と言い習わされているため神前結婚式では必ず「三三九度」が行われているように勘違いしますが、実際に行われているのはまれですから、ハッキリと区別しておきましょう。
○ちなみに新郎新婦が御神酒をいただく作法ですが御神酒を盃に受けましたら三口で飲みますが、一、二は口につけるだけで三口目でいただくのが通例です。
※1伊勢流
武家礼法の一流派。室町初期、伊勢貞継の創始。武家作法に準拠して、宮中式作法を採り入れたもの。幕府で採用。
※2小笠原流
近世の武家礼式の一。足利義満の時、小笠原長秀の定めたものと伝え、武家礼式の大宋として幕府・諸大名はこれに従った。