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【令和6年】

秋号

『代々木』は、明治神宮・明治神宮崇敬会が発行する季刊誌です。我が国の美しい伝統精神を未来に伝えるため、昭和35年より刊行をつづけております。明治神宮崇敬会の皆様にお送りしております。

 [明治神宮崇敬会のお申込み]

 

霞会館の百五十年 橋本春彦(一般社団法人霞会館 理事

 

明治天皇に始まる宝物模造の歴史と明治神宮での模造展の意義 飯田剛彦(宮内庁正倉院事務所長)

 

・ 大使が見た日本と明治神宮 トルコ共和国

 コルクット・ギュンゲン大使閣下

 

[明治の気概]田中光顕 岡田幹彦(日本政策研究センター主任研究員)

 

・ 霞会館の百五十年 橋本春彦(一般社団法人霞会館 理事)
・  霞会館の百五十年 橋本春彦(一般社団法人霞会館 理事)

明治天皇勅諭(霞会館蔵)

 

 華族会館の創立

 

 一般社団法人霞会館は、本年6月1日を以って創立百五十周年を迎えた。霞会館の前身である華族会館は、明治7年6月1日、永田町旧二本松藩邸において有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を館長に推戴し創立された。

 慶応3年12月9日の王政復古ののち、明治2年6月17日、版籍奉還と同時に諸大名と京都の公卿(くぎょう=三位以上)を併せて「華族」とされた。明治4年10月22日、華族は宮中小御所において明治天皇より「華族は国民中貴重の地位に居り、勉励して国家の開化富強のためにその本分を尽くすべし」との勅諭を賜り、明治7年6月1日、この勅諭の趣旨に基づいて華族会館が設立されるに至った。霞会館では現在でも6月1日を創立記念日としている。

 明治8年10月7日、明治天皇の初めての行幸があり、・・・(略)

 

 

※記事抜粋です。『代々木』をお読みになりたい方は、[崇敬会にご入会下さい]

・明治天皇に始まる宝物模造の歴史と明治神宮での模造展の意義 飯田剛彦(宮内庁正倉院事務所長)
・明治天皇に始まる宝物模造の歴史と明治神宮での模造展の意義 飯田剛彦(宮内庁正倉院事務所長)

明治神宮ミュージアム 「正倉院宝物を受け継ぐ―明治天皇に始まる宝物模造の歴史―」展行幸啓

 

明治天皇の御意志と正倉院の近現代

 

 明治時代、近代への幕開けと共に、正倉院にも大きな転換期が訪れます。管理者が東大寺から政府に代わり、近代国家にふさわしい保存と活用の形が求められるようになったのです。大きな契機は、明治10年(1877)の明治天皇大和行幸でした。東大寺で琵琶など正倉院宝物の楽器類をご覧になった際、その傷みが顕著であったことを重くみられ、修理を命じられたのです。

 当時、正倉の中に何があるのか、全体像が正確に把握できていない状況から、宝物を一点ずつ整理・登録し、展観を前提として復元的内容も含む大胆な修理を加える、という事業が始まりました。この修理事業が更に本格化するのは、・・・(略)

 

 

※記事抜粋です。『代々木』をお読みになりたい方は、[崇敬会にご入会下さい]

・ 大使が見た日本と明治神宮 トルコ共和国  コルクット・ギュンゲン大使閣下
・ 大使が見た日本と明治神宮 トルコ共和国   コルクット・ギュンゲン大使閣下

 

明治神宮や神道文化についての印象はございますか。――

 

 私自身は、キプロス、リトアニア、イタリア、ベルギー、オーストリア、エクアドルに赴任経験がありますが、アジア、まして日本は初めての滞在です。長い歴史と素晴らしい文化があることについてはもちろん知っていましたが、実際に生活すると、ほかの国にはない独特なものがあるように感じます。実は着任して最初に訪れたところが明治神宮でした。幸いなことに大使館は明治神宮まで徒歩で行ける距離で、私も含め歴代の大使が朝の散歩をかねてよく訪れている場所です。

 昨年にはアリ・エルバシュ宗務長官が明治神宮を表敬参拝しましたし、私自身も11月3日の例祭に参列させていただきました。明治神宮は・・・(略)

 

 

※記事抜粋です。『代々木』をお読みになりたい方は、[崇敬会にご入会下さい]

 

・[明治の気概]田中光顕 岡田幹彦(日本政策研究センター主任研究員)
・[明治の気概]田中光顕 岡田幹彦(日本政策研究センター主任研究員)

国立国会図書館「近代日本人の肖像」より

 

田中光顕

天照らす神の御末にまた神と

  あれいでまししかみは此神

 

 近代日本を興起、躍進せしめた明治の御代(みよ)は、わが国史において最もすぐれた多くの偉人が群(むら)がり出た時代である。今日ほとんど忘れ去られているが、隠れたる偉人の一人に長らく宮内大臣をつとめた田中光顕(たなかみつあき)がいる。

 田中は幕末、土佐藩士として生まれ、土佐勤王党首領武市半平太(たけちはんぺいた)に深い感化を受けて勤皇の志士として立ち上がった。土佐を脱藩して長州に走り、高杉晋作に師事し深交を重ね、四境(しきょう)戦争において命を捧げて戦い抜いた筋金入りの人物であった。そのあと中岡慎太郎(なかおかしんたろう)が組織した土佐陸援隊(りくえんたい)において副隊長として中岡を補佐した。

 

 

※記事抜粋です。『代々木』をお読みになりたい方は、[崇敬会にご入会下さい]