【令和5年】
夏号
『代々木』は、明治神宮・明治神宮崇敬会が発行する季刊誌です。我が国の美しい伝統精神を未来に伝えるため、昭和35年より刊行をつづけております。明治神宮崇敬会の皆様にお送りしております。
・ 明治神宮と私 観世清和(26世観世宗家)
・ トルコと日本と山田寅次郎 和多利月子(ワタリウム美術館ディレクター)
・大使が見た日本と明治神宮 アイルランド デミアン・コール大使閣下
・[明治の気概]渋沢栄一 岡田幹彦(日本政策研究センター主任研究員)
・ 明治神宮と私 観世清和(26世観世宗家)
「至誠館」開設で真剣の演武
——お家元は明治神宮武道場至誠館の開設記念日に、真剣抜刀の演武をされたのですね。今年、至誠館はちょうど50周年に当たりますので、50年前というと・・・。
中学の時です。古武道部に入っていたのですが、指導にいらしてられた稲葉稔先生(至誠館第二代館長)に「至誠館の道場開きがあるから、君、抜刀術の演武を」と言われて、「いえいえ、そんなのできません」と申したのですが、「3、4歳で能の初舞台やってるのだからできるだろう」と。不安でしたが、俎板(まないた)の上の鯉状態でした。それで、「演武は、ただ真剣を振り回すだけではない。身近に置いて毎日手入れをして、そこからだ」と。先生の太刀、備前長船をお預かりし、銃砲刀の登録証と一緒に自宅に持ち帰り、また持って稽古場に向かうということをさせていただいたんです。
それだけではありません・・・。(略)
※記事抜粋です。『代々木』をお読みになりたい方は、[崇敬会にご入会下さい]
・ トルコと日本と山田寅次郎 和多利月子(ワタリウム美術館ディレクター)
明治天皇を崇拝していた皇帝
——おじいさまの山田寅次郎について教えていただけますか。
寅次郎とトルコ(当時はオスマン帝国)の関係はエルトゥールル号遭難事故からスタートしました。その頃まだ青年(24歳)だった寅次郎は横浜でこの事故のことを知ったのですが、潜水関係の友人たちが翌日には救助に行ったのです。それができなかった寅次郎が何かできないかと考えたのが、義捐金活動なのです。
新聞関係の友人、陸羯南(くがかつなん)や福本日南(にちなん)に声をかけて告知記事を出し、寄席や演説会を行って義捐金を集めました。義捐金を集めたら、誰かにトルコまで届けてもらおう・・・たぶんそこまでしか考えていなかったと思います。それで青木周蔵外相に届けに行ったら、「あなたが集めたのだから、あなたが持って行きなさい」と言われたところから、彼の人生は変わったのだと思います。
これはあくまで私の想像なのですが、・・・(略)
※記事抜粋です。『代々木』をお読みになりたい方は、[崇敬会にご入会下さい]
・大使が見た日本と明治神宮 アイルランド デミアン・コール大使閣下
——コール大使は、本国でのご勤務のほか、ロシアやアメリカ、ベトナム、エジプトに駐在され、昨年8月、コロナ禍の水際対策が緩和される少し前に駐日大使として着任されました。最も大事な出発点である11月10日の皇居で行われた信任状捧呈式について感想をお聞かせください。
皇居はとても清浄な雰囲気があり、シンプルであると同時に日本の美を細部に感じることができました。木材が随所に使われ、また、水も取り込んだ静謐な空間はとても日本的であるとともに、アイルランドと通底するものも感じました。天皇陛下への謁見はとても光栄なことでした。何より、陛下はよくアイルランドのこともご存じで、とても温かいお言葉を頂戴し、陛下のお人柄に大変感銘を受けました。国と国との関係は、人と人との関係である、ということを強く感じた時間でもありました。
その後、12月21日には、明治神宮を表敬参拝させていただきました。大都会の中の森はとても清々しく、境内を歩きながら自然の恵みを実感しました。まさに、明治神宮は日本文化の象徴であり、かつ日本人のアイデンティティーのあらわれであるように思います。神前での参拝の厳かな瞬間に、過ぎゆく年を振り返り、新しい年の来し方に思いを馳せることができました。
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・[明治の気概]渋沢栄一 岡田幹彦(日本政策研究センター主任研究員)
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
渋沢栄一
私は常に士魂商才ということを唱道する。
日本人は飽くまで大和魂の権化たる武士道をもって立たねばならぬ。
明治神宮の創建を真先に
大正5年、77歳のとき財界を引退したが、亡くなるまで15年間、公共・社会・福祉・慈善事業に余生のすべてを捧げた。世のため人のため、恵まれぬ人々のために渋沢ほど尽瘁(じんすい)した経済人はなく、「実業寺の千手観音(千の手と千の目をもって一切の人々を救済する観世音菩薩・観音さま)」と呼ばれた。関係した事業は約600に及ぶ。
渋沢は明治の一大国難である日露戦争においても経済界で最も尽力した。参謀次長児玉源太郎が就任の翌日、真先に渋沢を訪れて日露開戦のやむなきに至った経緯を語り、経済界の全面的協力を要請した時、渋沢は深く了解して、
「児玉さん、私も一兵卒(いっぺいそつ=一兵士)として働きましょう。何事でも直ちに命令して下さい。私に出来ることでも出来ぬことでも必ず貫徹します」
と語り、児玉の両手を力強く握った。両雄の頬に熱涙が伝わった。知られざる佳話である。
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