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【平成22年】

春号

『代々木』は、明治神宮・明治神宮崇敬会が発行する季刊誌です。

我が国の美しい伝統精神を未来に伝えるため、昭和35年より刊行をつづけております。

明治神宮崇敬会の皆様にお送りしております。

 

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昭憲皇太后御生誕百六十年記念 「慈しみは国境と時代を超えて」昭憲皇太后基金の創設と現在
昭憲皇太后御生誕百六十年記念 「慈しみは国境と時代を超えて」昭憲皇太后基金の創設と現在

会場に鳴り響いた拍手

 

国際赤十字に「昭憲皇太后基金」(The Empress Shoken Fund)があり、毎年、昭憲皇太后のご命日に当る四月十一日、世界各国赤十字社の平時事業を援助するために基金からの利子の配分が行われています。

昭憲皇太后基金の誕生は劇的なものでした。

明治四十五年五月七日から十七日までワシントンで第九回万国赤十字総会(赤十字国際会議)が開催され、三十二ヵ国から政府代表委員及び赤十字代表委員ら二百六名が出席しました。開会三日前の五月四日、日本赤十字社の代表として出席する副社長小澤武雄は、日本から送られてきた社長松方正義からの一通の電報を受け取りました。それは、「皇后陛下より平時救護事業ご奨励のために、万国赤十字(国際赤十字)に金十万円(現在の金額で約三億五千万円)を下賜されたので、提議方の取り計らいを乞う」というものでした。

小澤武雄は、歓喜して急遽万国赤十字総会の議題に取り上げてほしいと願い出、会議第一日の五月八日にこの議題が取り上げられることになりましたが、これに先立って五月七日午後に行われた開会式で書記長エミル・シャリエー(フランス)は「日本国皇后陛下が平時救護事業ご奨励のために金十万円を万国赤十字にご寄付になりました」と紹介し、会場を揺るがす程の拍手が鳴り響いたと報告されています。

嬉しい大きな話題として、会議が始まる前に開会式で紹介されたのでした。

 

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佐藤 雅紀(さとう・まさのり)

昭和15年、岩手県北上市生まれ。日本赤十字社本社奉仕課長、同東京都支部振興部長、東京都赤十字血液センター副所長を歴任。日本赤十字社嘱託(日本赤十字社社史稿編纂)を平成21年12月まで務めた。著書に『歴史訪問日本赤十字社の創立』

十二徳の実践者「朋友の信」
十二徳の実践者「朋友の信」

呉 善花(拓殖大学国際学部教授)×石 平(拓殖大学客員教授)

 

 

 (前略)日本では美学があるんですよ。(対談の行われている茶室から見える庭を指して)この庭も、入るのではなくて、あくまでも外から眺める。庭との距離をおいて、「私は私、庭は庭」。それで私と庭の間に、おそらく静かな交流もある。しかし、決して私は庭の一部にならないし、庭が私の一部になることもない。媚びることはしない。私と庭の出会いは一期一会なんです。要するに、この瞬間、心の通じ合うところがあればある意味十分だという……。

 

よく言われるのは、お葬式での当事者の態度。韓国も中国も、家族を亡くしたら、みんなの前でワーワー泣くのが、自然の発露。日本人はお客さんの前では、なるべく凛として、抱え込むんです。ひとつの美学。

もちろん、良くない面もあるでしょう。おそらく、日本の自殺率が高いのもそれと関係があると思います。要するに、自分をすべてさらけだす相手が日本人同士にはあまりない。全部自分が抱え込んだままで、富士山の樹海へ行ってしまう。でも、この二つのどちらにも、いい面と悪い面があるんです。ではどちらをとるかというと、私は日本をとりたい。四十八歳にもなって、自分のことは自分で処理できる歳ですよ。人前ではあくまでも楽しく、また相手の立場も配慮し、一定の距離をおいて、「清く、美しく」付き合った方がいいと、この歳になって思うんです。

 

 静かな交流という言い方、とてもよかったですね。日本の庭は、眺めて、想像を膨らませているわけですね。それと人間関係も同じように感じます。ちょっと距離を置きながら、眺めあう、察する。日本には察する文化があるわけですよね。察するということは、距離をおかないとできませんね。

 

 なるほど。

 

 「彼はいまニコニコ笑っているけれども、実は苦しんでるよ」というわけですね。これが日本の精神文化ではないのかなと。庭と同じく、これは日本の美意識であるのと、儒教文化圏では、人が亡くなったときに泣くのは、いいことなんです。(後略)

 

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呉 善花(お・そんふぁ)

1956年、韓国・済州島生まれ。83年に来日し、大東文化大学卒業後、東京外国語大学大学院修士課程を修了。評論家。拓殖大学国際学部教授。著書に『攘夷の韓国 開国の日本』『スカートの風』『韓国併合への道』など多数。

 

石 平(せき・へい)

1962年、中国四川省生まれ。北京大学哲学部卒。四川大学哲学部講師を経て、88年来日。神戸大学大学院文化学研究科博士課程終了。評論家。拓殖大学客員教授。著書に『論語道場』

『私はなぜ「中国」を捨てたのか』『謀略家たちの中国』など多数。

聖蹟を歩く ―明治天皇のご事績を絵画と聖蹟でたどる― 第2回 大阪行幸と東京行幸
聖蹟を歩く ―明治天皇のご事績を絵画と聖蹟でたどる― 第2回 大阪行幸と東京行幸

(難宗寺の行在所)

慶応四年三月二十一日、天皇は大坂へ向けて京都御所を出発されました。大坂行幸の期間は閏四月八日までの四十九日間です。当時の太陰太陽暦では、一年十三ヶ月の年が定期的に巡ってくるため、閏月が設けられました。閏四月とは二回目の四月ということです。

 

天皇は石清水八幡宮と守口宿の難宗寺にお泊りになり、三日間かけて大坂まで移動されました。今の感覚からすれば二泊する距離ではないのですが、天皇にとって最初の洛外行幸であられましたから、新政府は慎重を期したのでしょう。

 

大坂の行在所は本願寺津村別院と定められました。天皇は連日のように各所に行幸されています。天保山沖の艦船を陸上からご親閲になり、大坂城において諸藩兵の操練をご覧になりました。天皇のご生母中山慶子の安産祈願が行われた坐摩神社や、吉野時代の後村上天皇崩御の地である住吉行宮への行幸が実現しています。楠木正成をご祭神とする神社(湊川神社)の造営や、豊臣秀吉の顕彰を意図して豊国社の造営を命じられたのも大坂行幸中のことでした。

 

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打越 孝明(うちこし・たかあき)

昭和三十五年、茨城県水戸市生まれ。早大大学院に学び、同大学助手や大倉精神文化研究所専任研究員などを経て、現在明治神宮国際神道文化研究所主任研究員および早大非常勤講師を務める。共編著に『日本主義的学生思想運動資料集成・・・』や『大倉邦彦の『感想』―魂を刻んだ随想録―』、論文に「明治天皇崩御と御製 上・下」(『復刊明治聖徳記念学会紀要』25・26)などがある。