明治神宮関係
- Q1
明治神宮の歴史はいつからですか?
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A
以前東大の学生さんが、明治神宮へ初詣にこられた人たちに、明治神宮がいつ頃できたのかアンケート調査を行いました。その結果、最も古く答えたのは奈良時代で、最も新しいのは昭和時代という回答でした。しかも約四割が明治時代との答えだったそうです。
明治神宮は大正9年11月1日に創建されました。明治神宮は近代日本の礎をお築きになられました明治天皇さまとそのお后であられる昭憲皇太后さまの二柱をお祭りしています。明治天皇は明治45年7月30日に、昭憲皇太后は大正3年4月11日にお隠れになり、これを伝え聞いた国民の間から一斉に御神霊をおまつりして、御遺徳を永遠に追慕し、景仰申し上げたいという気運が高まり、その真心がみのって明治神宮の創建となったのであります。
当時国民の中からいろいろな記念行事が提案されました。銅像・記念塔・図書館・美術館・博物館・養育院・慈善病院・植林・公園・公会堂・学校・工業試験所や東京湾築港、関門海峡・津軽海峡に架ける橋、日本海と太平洋を連絡する運河などなど、しかしこの中でも最も多かったのがやはり神社であったそうです。
工事は大正5年より始まり、全国から延べ11万人もの青年団が奉仕して大正9年に御鎮座となりました。
11月1日の当日、境内の外では市民奉祝のイルミネーションや花火が打ち上げられ、1日だけで50万人もの参拝者があったと当時の東京朝日新聞(大正9年11月2日付)は報じています。
- Q2
明治神宮の杜(もり)が人工林というのは本当ですか?
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A
明治神宮の杜は、人の手でつくられた杜です。
明治神宮ができる前、この辺り一帯は南豊島御料地(皇室の所有地)といって現在の御苑一帯を除いては畑がほとんどで、荒れ地のような景観が続いていたそうです。神宿るおごそかな杜をつくるため、林学・造園学の専門家である専門家が集められ、本多静六・本郷高徳・上原敬二が中心となって「永遠の杜づくり」が計画されました。
大正4年から造営工事が始まりましたが、全国から植樹する木を奉納したいと献木が集まり、北は樺太(サハリン)から南は台湾まで、満洲(中国東北部)朝鮮からも届き、全部で約10万本が奉献されました。
在来木などもあわせると創建時の樹木は365種でしたが、東京の気候にそぐわない種類もあり、現在では234種類になりました(平成25年『鎮座百年記念 第二次明治神宮境内総合調査報告書』)。杜は大きく豊かに成長しており、絶滅危惧種や貴重な動植物も確認されています。
明治天皇・昭憲皇太后両御祭神の御神徳と、近代日本の礎を築いてきた明治の先人達の精神と共に、この杜を永遠に子孫へ受け継いでいかなければならないと考えております。
- Q3
なぜ、明治神宮には杉や檜が少ないのですか?
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A
明治神宮境内の樹木を見ると椎や樫、楠が多く、伊勢の神宮や日光東照宮のような杉や檜が少ないことに気づきます。
創建当初明治神宮に何を植えたら立派に育つか、また100年後自然の状態になっていくのか、当時の植物学者たちが考えました。そして椎・樫などの照葉樹を植えることに決定したのです。理由は大正時代、すでに東京では公害が進んでいて、都内の大木・老木が次々と枯れていったのでした。そこで百年先を見越して明治神宮には照葉樹でなければ育たないと結論づけたのでした。
ところが当時の内閣総理大臣であった大隈重信首相が「神宮の森を薮にするのか、薮はよろしくない、当然杉林にするべきだ」として伊勢の神宮や日光東照宮の杉並木のような雄大で荘厳なものを望んでいました。しかし当時の林苑関係者は断固として大隈重信の意見に反対し、谷間の水気が多いところでこそ杉は育つが、関東ローム層の代々木では不向き、杉が都会に適さないことを説明してようやく納得させたそうです。
もしこの時に大隈重信の意見を聞き入れて杉の森にしていたら、今のような素晴らしい森にはなっていなかったかもしれません。当時の人たちの信念に感謝申しあげましょう。
- Q4
地名「代々木」の由来は何ですか?
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A
明治神宮鎮座のこの地は昔から「代々木」と呼ばれていました。この「代々木」の地名の由来についてお話しします。
『大日本名所図絵』※1に"代々木御料地なる旧井伊侯下屋敷に樅の老樹あり、幾年代を経しを知らず、すでに枯れて後継樹も喬木となり居れり、是れ当地に於いて最も有名なり、代々木の称は是より起これり"とあり、代々(だいだい)この地に樅(もみ)の大木があったので、「代々木」の地名がついたとしています。
この樅の大木ですが『東海道五十三次』の作者で有名な安藤広重も『江戸土産』の中の一つに「代々木村の代々木」と題して代々木の大木を描いています。かなり大きな木であったようで『明治神宮造営誌』※2には枝の広がりが最も広いところで「四方三十余間(約54メートル)に及ぶ」と書かれてあり、元帝国大学教授の白井光太郎博士がこの木を調査したところ、幹の周囲が三丈六尺(約10.8メートル)あり、博士が全国の名木老木を調査した中でいまだかつてこれほど大きな樅の木はなかったそうです。高さがどれぐらいあったのか確かな記録が残ってませんのでわかりませんが、普通の樅の木でも高さ40メートルになるといわれますので、幹の太さから推測するとおそらく50メートル以上はあったのではないかと想像されます。
この樅の大木は上京してきた旅人の目標にもなったと言われるほどで、この木に登れば江戸一円が見渡すことが出来たそうです。徳川時代にはこの木の上から城内をさぐられてはならないと、一般の人が登るのを禁止したという話さえあり、また幕末には黒船の動きをここで見張ったともされています。おしくもこの名木は明治中ごろに枯れてしまい、その後、昭和20年の戦災で焼け落ちてしまいました。現在ある代々木(樅の木)は、戦後昭和27年4月3日に同じ場所に植えられたものです。
※1『大日本名所図絵』(だいにほんめいしょずえ) 日本地誌の叢書。二輯二十巻。江戸時代に刊行された名所図絵の版本を大正7年から11年にかけて翻刻出版したもの。
※2『明治神宮造営誌』(めいじじんぐうぞうえいし) 明治神宮創建当時の歴史書。大正12年に明治神宮造営局より刊行されたが、関東大震災により中断、昭和5年明治神宮鎮座十年祭にあたりに内務省より復刻再版された。
- Q5
なぜ、明治神宮のおふだの宮には「ノ」が入っていないのですか?
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A
皆さんのなかに、明治神宮でおふだを受けられ、そのおふだを見て、宮の字に「ノ」がはいっていないことに気づかれたた方はいらっしゃいますでしょうか? 明治神宮が皆さんに授与しているおふだには、宮の字に「ノ」がはいっていません。なぜでしょうか? この「宮」の字について考えてみましょう。ここで問題になるのは、
Q1 本当にこのような字があるのか?
Q2 なぜ明治神宮で使っているのか?
では一番目の問題から入っていきたいと思います。
実は明治神宮だけではなく、伊勢の神宮のおふだにも「ノ」が入っていないのです。 角川書店から出ている『書道字典』には昔の漢字の書体が出ていますが、それを見ますと「宮」の書体の種類は35種類あります。そしておどろくことに「ノ」がついていない「宮」の字が32もあるのです。
また日本においても古代・中世は、「ノ」が入っていない「宮」の字が多いのです。ご存じのように漢字は象形文字です。「宮」の字は屋根におおわれた家の形をした「うかんむり」に建物を表す「ロ」が重なり、廊下を意味する「ノ」から成り立っています。古代中国では建物と建物の間には廊下がなかったので、「ノ」が入っていなかったのですが、後に廊下がつくようになると宮の字も必然と「ノ」が入るようになったのです。つまり「ノ」の入っていない「宮」の字のほうが入っているのよりも古いということです。
ですから日本でも当初は「ノ」の入っていない宮を使用したのでしたが、それが大正期になると公的機関で「ノ」を入れるようになりました。それ以後「宮」の字が圧倒的に多くなり、戦後では誰もが宮は「ノ」が入っているのが正しいと思うようになるのです。次に二番目の問題ですが、明治神宮ではなぜこの字を使っているのかについて説明いたします。明治神宮は大正9年11月1日創建されました。その第一日目より直会殿でおふだを授与したのですが、そのおふだを書いたのが、当時明治神宮造営局の第六代副総裁・床次竹二郎でした。そしてそのおふだには「ノ」が入っていなかったのです。 以来明治神宮のおふだは、この字を基本にしてきたのです。
なお、『明治神宮明細帳』(大正11年)には「ノ」が入った「宮」が使われていることから、正式な神社名は「ノ」が入る「宮」を使用します。
- Q6
なぜ、明治神宮では菊と桐の紋を使っているのですか?
-
A
『菊』は春の桜と並び日本を代表する花であります。昔から日本では菊は花の中で最も高貴とされ(中国では牡丹が最高の花)「百花の王」「群芳の貴種」とされてきました。ところが意外なことに日本原産の花ではないのです。菊は古代バビロン※1の時代より装飾として使われ、古代インド・中国・朝鮮でも建築装飾に用いられ、日本には中国を通じて奈良時代に輸入されました。伝来当初は現在のような鑑賞用としてではなく、邪気をはらう不老長寿の薬として伝わったようです。また花の形が太陽の形(日輪)に似ていることから、天照大神の信仰とも結びついて日の御子・天皇の象徴とされ、永遠の弥栄を祈る思想が受け入れられたのでしょう。平安時代には広く菊の文様が使われるようになりました。
皇室で初めて菊の紋が使用されたのは後鳥羽上皇※2の御代で上皇は個人的に菊を好まれ刀や輿車・御服などに菊紋をつけましたが、それが代々天皇家にて受け継がれていき、いつしか皇室の御紋章となったのです。
『桐』は中国の古い思想で聖天子の出現をまって現れる瑞鳥・鳳凰が住むめでたい樹でありました。我が国では平安初期(嵯峨天皇※3の時代)天皇がお召しになられる黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)※4に竹と鳳凰と麒麟、そして「桐」が描かれてあり、時代が下るにつれ政府機関に用いられる装飾の文様に使われたり、また菊紋の代用として用いられ、国家政府のシンボルのような役割を果たしてきました。
この2つの紋章は成立事情から菊紋は私的な紋章(後鳥羽上皇が個人的にご使用されていたため)で表紋的※5な要素が強く、逆に桐紋は政府機関の公的な紋章で替紋的※6な性質を持っています。 明治神宮の御祭神は明治天皇と昭憲皇太后ですので、このような理由から明治神宮の建造物には至るところに菊紋が使われているわけです。(桐紋は南神門両脇門の扉に描かれているだけ)
ところで、御社殿についている菊の紋をよく見ると花びらの数が十六弁(枚)ですが、授与品(主に縁起物)やまた授与品を入れる袋に描かれている菊紋は十二弁(枚)になっています。次にこの疑問についてご説明いたしましょう。
皇室の正式な菊紋は十六弁です。明治神宮創建(大正9年11月1日)当時、この皇室の十六弁の菊紋使用については、まだ規則がなかったので明治神宮の建造物には菊紋がたくさん使われています。しかし、これを記念品・印刷物などに使うことはなかったそうです。昭和40年に明治神宮独自の神社紋の必要性を感じ、同年10月1日、菊紋と桐紋を併せデザイン化したものを考え、皇室の十六弁の菊を十二弁に、五七の桐※7を五三の桐※8にして皇室には遠慮申し上げて、明治神宮にふさわしい落ち着いた高尚な紋章を制定したのでした。以来、明治神宮には建造物に使われている十六弁の菊紋の他に、記念品や印刷物には十二弁の菊紋使われるようになったのです。
※1「バビロン」 チグリス・ユーフラテス川地域で栄えた古代都市。(BC3000年)当時世界文化(メソポタミア文明)の中心であった。
※2「後鳥羽上皇」 鎌倉時代の天皇。和歌管弦に通じ、藤原定家に「新古今和歌集」を選ばせた。
※3「嵯峨天皇」 平安時代の天皇。桓武天皇の皇子、三筆の一人、蔵人所・検非違使の設置、「新撰姓氏録」「弘仁格式」を勅撰した。
※4「黄櫨染御袍」 天皇が宮中三殿の恒例祭祀や儀式の際、お召しになる御服。嵯峨天皇の詔によって定められた。
※5「表紋」 定紋(じょうもん)として用いる紋。
※6「替紋」 定紋にかえて用いる紋。裏紋。
※7「五七の桐」 花の数が中央が七、左右が五の数の桐紋
※8「五三の桐」 花の数が中央が五、左右が三の数の桐紋
- Q7
大太鼓の各部分の名称について教えてください。
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A
大太鼓は「だだいこ」と呼びます。舞楽に用いる太鼓です。向かって右側の太鼓を「左方(さほう)の太鼓」(左太鼓)、左側を「右方(うほう)の太鼓」(右太鼓)と称します。 次に各部分の名称ですが、まずてっぺんにある飾りは「日形」(ひがた)と呼びます。また輪状に放射している部分は「御光」です。左方(右側)は「日」(日像)を表していて色は金色、右方(左側)は「月」(月像)を表していて色は銀色です。
次にまわりが炎のようになっている部分を「火焔」(かえん)といいます。この火焔の形から大太鼓は別名「火焔太鼓」(かえんだいこ)とも呼ばれています。そして火焔の上部の下にある頭がとがっている三つの丸い形をしたのは「宝珠」(ほうしゅ)といい仏教的な飾り物です。左右の太鼓にはそれぞれ龍(左太鼓)と鳳凰(右太鼓)が描かれています。龍や鳳凰※は中国ではともにめでたい動物であり、龍を男性、鳳凰を女性の象徴として古来より様々な装飾に描かれてきました。
次に太鼓の中心に渦巻の文様が描かれています。またその外側には剣先のような文様があります。渦巻の文様は「巴」(ともえ)といい、この巴紋と外側の剣を合わせた文様を「剣巴」(けんどもえ)と呼ばれています。そして左方の太鼓には三巴(巴が三つあるから)で左巴(左側に渦が巻いているから)、右方の太鼓には二巴(巴が二つだから)で右巴(右側に渦が巻いているから)ですのでおぼえておきましょう。下地で渦を巻いているのは雲をかたどった「雲形」(うんけい)です。
※鳳凰(ほうおう) 古来中国で麟(りん)・亀・龍と共に四瑞として尊ばれた想像上の瑞鳥。聖徳の天子の兆しとして現れると伝えられる。
※四神 四方の神、すなわち東は青龍・西は白虎・南は珠雀・北は玄武の称。(四獣)
※四霊 中国で神聖視される架空の動物、麒麟・鳳凰・亀・龍
- Q8
太鼓に描かれている模様(ともえ紋)は何の模様ですか?
-
A
太鼓の中心に描かれている文様は「巴」(ともえ)紋といいます。日本で存在する最古のものは高野山金剛峰寺にある「聖衆来迎図」※1に描かれている中太鼓の剣巴の文様とされています。巴紋は宇佐八幡宮(神宮)※2などの八幡神社の神紋でもありました。鎌倉時代になると源頼朝が鶴岡八幡宮を源氏の氏神として崇めたことにより、それにあやかって武士の間で多く使用されたため巴は皇室のご紋章である菊・桐に次いで最も多く用いられています。
この模様は古くより世界各地に見られますが国々によってその原型となったものが異なります。例えば西欧や朝鮮では蛇の形から来ていますし、また中国では雷または雲の形から来ているとされます。しかし我国では蛇や雷・雲ではなく水の渦を巻く形が「ともえ」模様の原型とされています(参考 『日本紋章学』沼田頼輔)。
次に「ともえ」の語源ですが、「ともえ」は「鞆・絵」の意味です。水の渦巻いている形が”「鞆」の絵”の形に似ていることから由来します。「鞆」とは日本古来より使われた武具で弓を引くときに、これを左手(弓手)の手首につけ、弦のさわるのを避けるために用いられました。『日本書紀』※3に天照大神が須佐之男命が攻めてくると勘違いして武装したエピソードがありますが、その条に「臂(ひじの意味)に稜威の高鞆を著き」とあり神話に語られていることにより、その起源の古さがうかがわれます。また「鞆」の字は中国の漢字にはありません。日本の字(国字)です。また「巴」の字ですが、この字はもともと蛇がとぐろを巻いている形を模したもので中国では「巴」は蛇の意味しかなかったのです。でも日本では「巴」の字が水の渦巻の形に似ていることからこの字を使うようになりました。
要するに我国では水の渦巻の形をしている模様を日本語で「ともえ」と呼び、漢字では「巴」の字を当てて表現したのでした。
次に太鼓に描かれている巴の形状について説明します。太鼓の巴紋を見ると向かって右側(左方)は巴が三つ描かれてあり、左側(右方)は巴が二つ描かれています。そして渦巻の方向も違う事に気がつきます。(別図参照)なぜ左右の太鼓の模様が違うのでしょうか、理由は太鼓はかならず対になっていますので、その左右の太鼓を区別するために巴の数と渦巻の方向を別にしている事が『江談抄』※4に出ています。『江談抄』では右方の太鼓は二巴で右巴(時計回りに廻っているもの)左方は三巴で左巴(「右巴」の反対方向に廻っているもの)と決められています。ところで、なぜ巴の数が三つと二つなのかよくたずねられますが、この事について調べてみましたが、はっきりしたことはわかりませんでした。ただ想像するに陰陽五行説※5の影響かと思われます。左太鼓の日形(ひがた)は日(太陽)<陽>で右太鼓は月<陰>です。また左太鼓に描かれている龍は男性を表していますので陽、右太鼓の鳳凰は女性ですので陰、つまり左太鼓は「陽」で奇数(三・五・七・九)になり、右太鼓は「陰」で偶数(二・四・六・八)になります。よって左太鼓の巴の数は三<陽>で右太鼓は二<陰>となるわけです。
なお、神楽殿玄関および側面のガラス壁には三巴の模様があります。よく見ると巴の頭の部分が少しとがっているのに気がつきます。これはその形が「なめくじ」に似ていることから俗に「蛞蝓巴」(なめくじともえ)といわれています。
※1聖衆来迎図 平安中期以後盛行した浄土信仰の中で生まれた仏画。西方極楽浄土の阿弥陀如来が多くの菩薩(聖衆)とともに人間世界の死者を迎えに来る姿を描いたもの。
※2宇佐神宮 宇佐八幡ともいう。大分県宇佐市にある。祭神は応神天皇・ヒメガミ・神功皇后。平安時代以降神仏習合の風が強く、伊勢神宮に次ぎ九州第一の宗廟として社運大いにふるった。
※3『日本書紀』 奈良時代に完成した日本最古の歴史書。
※4『江談抄』(ごうだんしょう) 平安時代末の成立。大江匡房(おおえまさふさ)の談話を藤原実兼が筆記したもの。故事や世間の雑事をしるし、後世の説話文学に影響を与えた。
※5「陰陽五行説」 古代中国の哲学思想。万物は陰陽の二気によって生じ、五行(木火土金水)によって万物は形成されるとする。また男女・日月・天地、数の奇数・偶数などを陰陽にあてる。
- Q9
なぜ、明治神宮のおみくじには吉凶がないのですか?
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A
はじめにおみくじの歴史から説明します。おみくじ・宝くじ・くじ引き・あみだくじなど、本来くじ(籤)は神意を占う方法の一つで、神代の昔より神事として盛んに行われていました。『日本書紀』※1に天智天皇※2が皇太子の時、部下が反逆者であるかどうかを「ひねりぶみ」といって、何枚かの紙に文字を書いて折りひねり、この一つを選んでくじ占いをして判断したことが出ています。
また民間でも重要なことを決めるのにくじを引くことが多く行われていました。ちなみに「明治」の元号もいくつかの候補の中から明治天皇がくじを引いてお選びになられたのでした。今日見るような筒の中の棒に数を書いて吉凶を占う方法のおみくじですが登場するのはそう古い時代ではなさそうです。
いつ頃から始まったのか、はっきりわかりませんが戦国時代、明智光秀が織田信長に謀反を起こす(本能寺の変)前日に愛宕山でおみくじを引いて勝運を占った話がありますので近世以降のようです。
さて明治神宮のおみくじですが、戦前、明治神宮は国家の管理に置かれていましたから、神札(おふだ)は授与していましたが、おみくじは出していなかったのです。
戦後、一宗教法人となり明治神宮でもおみくじを出すことになったのですが、一般神社で出している普通のありふれたおみくじではなく、明治神宮にふさわしい何か独特のおみくじはないかと考え、当時明治神宮の総代をされていた國學院大學教授の宮地直一氏にご意見を伺ったところ、吉凶のおみくじではなく、御祭神にもっともゆかりの深い御製※3・御歌※4でおみくじを出したらどうかとのご助言をいただきました。
ちなみに明治天皇は93,032首、昭憲皇太后は27,825首もの膨大なお歌をつくられています。その中から特に人倫道徳を指針とする教訓的なものを15首ずつ、合計30首選び、それに解説文を入れて昭和22年の正月から「大御心」(おおみごころ)と題して社頭にて授与するようになりました。当時は藁半紙(わらばんし)でしかもガリ版刷りの粗末なもので1円で授与しました。今のようなおみくじになったのは昭和48年の正月からです。
また外国人の参拝者増加にともない、おみくじの中より20首を選び「英文おみくじ」として昭和43年、明治維新100年の意義深い年の新春より授与をはじめて好評を博しました。現在は、日本語に英訳をつけています。
※1『日本書紀』(にほんしょき) 養老四年(720)に編纂された日本最古の歴史書。神代より持統天皇のおわりまで編年体でしるしたもの。
※2天智天皇(てんじてんのう) 第38代天皇。皇子の時代、藤原鎌足とともに入鹿を討ち、蘇我氏を滅ぼした。(大化の改新) 天皇即位後「近江令」を定め戸籍を整え、冠位二十六階を制定し、水時計を作るなど治績は大きい。
※3御製(ぎょせい) 天皇の作られた詩文・和歌
※4御歌(みうた) 皇后・皇太后・皇太子などのよまれた和歌。
- Q10
なぜ、明治神宮には狛犬がないのですか?
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A
素朴な質問ですが意外とわかりにくい問題です。実は明治神宮には狛犬は置いてあるのです。「え! どこに?」と、みなさんお探しになっても見つけることはできません。
なぜかというと狛犬が置いてあるところは御社殿の中の内陣(ないじん)※1という場所にあるからです。ではなぜ参道においてないのか、疑問に思う人もいるでしょう。
まず最初に狛犬の歴史からお話ししていきたいと思います。狛犬の起源は古代オリエント・インドに遡(さかのぼ)ります。狛犬はライオン(獅子)を象った像ですが、それがはるばるシルクロードを通って日本まで伝わってきました。古代オリエント諸国では聖なるもの、神や王位の守護獣として百獣の王ライオンを用いる流行がありました。そのいちばんいい例がエジプトピラミッドのスフィンクスです。それが一方では西欧に流れていってヨーロッパ諸国の王位の象徴である獅子像になりました。西欧の王室のマークや建物の飾りを見ると、ライオンのデザイン化されたものが多いでしょう。あれも狛犬の遠縁なのです。
ところで獅子像が中国から日本に伝わった当初、日本人はその異様な形の生き物を犬と勘違いし、また朝鮮から伝来したことから「高麗(こま)犬(いぬ)」と呼ばれるようになったそうです。ちなみに本物の生きたライオンが初めて日本に渡来したのは慶応2年(1866)正月のことでした。
狛犬は伝来当初、宮中の清涼殿(せいりょうでん)※2の中で鎮子(ちんす)※3または魔除けの意味で置かれました。それが平安時代から鎌倉時代になると神社や寺院の建物の中にも置かれるようになりますが、参道に狛犬が置かれるようになるのは意外にも江戸時代からで、それほど古い時代ではないのです。ですから古い歴史のある神社、たとえば伊勢神宮などには狛犬の入ってくる前からの古い形をそのまま伝えているお宮ですから狛犬が見られないのです。
では明治神宮はなぜ外に置いてないのか、はっきりとそのことについて記された書物がありませんので想像で申しますが、明治神宮の社殿建築は流造(ながれづくり)※4の様式です。流造は平安時代に発展した神社建築で最もポピュラーな形で全国にありますが、この社殿様式と全体の景観を考慮して参道またはご社殿前には狛犬はふさわしくないと判断されたのでしょう。よって狛犬は平安時代のように御社殿の中にあるのです。
ちなみに神社に置いてある狛犬は神前に向かって右側で口を開けてるのを「獅子(しし)」(阿・あ・攻)と呼び、左側の一角で口を結んでるのを「狛犬(こまいぬ)」(吽・うん・護)と区別していますので覚えておきましょう。
※1内陣(ないじん) 神社の本殿の中で最も奥にあり、御神体あるいは御霊代(みたましろ)を奉安する場所。
※2清涼殿(せいりょうでん) 平安京内裏(だいり)殿舎の一。天皇の常の居所で儀式・公事を行った。
※3鎮子(ちんす) 室内の敷物・帷帳(いちょう)などがあおられぬためまたはふき散らされぬために、おさえるおもし。
※4流造(ながれづくり) 平安前期より起こった神社建築の一。神明造の屋根に反りを付し、その前流れを長くしたもの。京都の下鴨神社が典型。
- Q11
なぜ、参道には玉砂利が敷き詰めてあるのですか?
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A
外国の人が明治神宮に参拝に来ると、必ずといっていいほど、なぜ参道に小さな石が敷いてあるのか、歩きにくいから必要ないのでは、とよく質問されます。
日本人には、神社の参道に玉砂利が敷いてあるのは当たり前であっても、外国人にとっては、わざわざ歩きにくいようにしてあるのが不思議に感じられるようです。百科事典ではどのように説明しているのか調べてみると、驚いたことに、玉砂利について説明されたものは、ほとんどないのです。実はそれほどまでに神社の参道に玉砂利が敷いてあるのは、ごく当たり前のことであり、わざわざ事典に載せるほど、特別なむずかしいことだとは考えられていなかったようです。
言葉の意味からみていくと、玉砂利の玉とは「たましい(魂)」「みたま(御霊)」の「タマ(霊)」と同じ意味と、「玉の声」「玉のような赤ちゃん」というように「美しい」「宝石」「大切なもの」という意味もあります。そして「砂利」はあて字で、本来「じゃり」は細かい石の意味の「さざれ(細石)」からきています。よってミタマの籠もった、美しい・宝石のような・大切な小さい石という意味になります。また、境内にある垣を「たまがき(玉垣)」といいますが、これは皇居や神社の垣を特別な垣とした尊称(ほめことば)です。よって神社の参道に敷きつめてある特別な小石ですから、玉砂利も尊称した呼び方かもしれません。ところで全国神社の代表といえば伊勢神宮です。神宮にもやはり参道には玉砂利が敷いてあります。そして御正殿(御社殿)のまわりには白石(しらいし)が敷きつめてあります。この白石は、遷宮といって二十年に一度、御正殿を造替するお祭りがあり、その際に伊勢市を流れる宮川上流の河原から、自然のままの汚れていない、きれいな丸い白石を持って来て御正殿のまわりに新しく敷きつめるのです。御正殿とその周辺は最も神聖な場所ですから、最高に清浄にしなければいけません。そのために、きれいな白石を敷きつめるのだとされています。つまり敷くことによってその場所をお祓い・お清めする意味があるのです。
このように日本では昔から神聖なところは、さらに清浄にするため、きれいな石を敷きつめたのです。ですから玉砂利も、清浄さを保つために敷かれてあるのでしょう。鳥居をくぐって参道を進むとき、人は清浄な石を踏むことによってしだいしだいに身を清め、心を鎮めて、最高の状態で祈りが出来るように、気持ちを整えながら神さまのいらっしゃいます神聖な場所へ向かいます。こうした「祈る」までの姿勢の持ち様も、参道の中に込められていて、玉砂利には魂を安らがせ清めるという絶大な効果をもっているのです。
私たちも神社へお参りする時には、参道の玉砂利を踏みしめながら、心身ともに清め、神前へまことの祈りを捧げることができますように心がけましょう。それから、参道の中央は「正中」といって、昔から神さまの通り道とされています。昔の人たちは真ん中を歩かないように心がけていました。私たちもそのようにすることが神さまに対する礼儀といえるでしょう。
- Q12
明治神宮の大鳥居は日本一ですか?
-
A
南参道と北参道の出合い口のところに大鳥居(第二鳥居)があります。高さが12メートル、幅が17.1メートル、柱の太さが直径1.2メートル、重さが13トンもあり、木造の明神鳥居としては日本一の大きさを誇っています。
実は今ある大鳥居は二代目なのです。
一代目の大鳥居は明治神宮が創建された大正9年に完成しました。この鳥居の材木は檜(ヒノキ)ですが、国産の檜ではなく台湾産です。明治神宮御造営の時に台湾総督府より献木されたもので、阿里山(アーリーシャン)の西腹より伐採されたそうです。樹齢は1200年以上に達していたといわれます。
ところが昭和41年7月22日午後3時15分ころ、右側(北側)の柱に雷が落ち破損してしまいました。幸いなことに参拝者に事故はありませんでしたが、神宮としては老朽化も進み今回の破損で鳥居を立て直したいと考えていました。しかし残念なことに、日本にはすでにこのような立派な大鳥居が作れるほどの檜はありませんでした。
なすすべもなく困っていたところ、東京で材木商を営む篤志家・川島康資さんが明治神宮の大鳥居が傷ついたことを聴き、なんとか明治神宮と靖国神社に奉納したいと考えました。川島氏は親子二代にわたって材木商を営んでいましたが、ここまで無事に商いが出来たのも、ひとえに神のご加護以外のなにものでもないと、つね日頃より報恩感謝の気持ちで暮らしていましたので、終生の事業として是非この大鳥居を奉献させていただきたいと願い出たのでした。
わざわざ台湾まで何回も檜材を探しに行き、その結果、とうとう阿里山の連山で標高3300メートルの丹大山(タンターシャン)の中に大木を発見しました。この檜は樹齢1500年を超える巨木で、しかも大変な山奥にあり、先ずどうやって搬出するかという問題が生じました。しかし川島氏から明治天皇と昭憲皇太后をおまつりする明治神宮と英霊をまつる靖国神社に奉献することを聞いた台湾現地の人々が、おおいに感激して積極的に協力してくれたそうです。
道なき断崖に道をつけ、山を切り拓いて24里(96km)の山中を、運搬のために特別に作られたトラックに積まれた材木は、さらに鉄道で台中(タイチョン)・基隆(キーロン)へと運ばれ、昭和46年の夏東京湾に到着しました。
この間地元の孫海氏をはじめとする台湾の人々、東和建材の富岡直衛社長、三井商事もご協力くださり、東京湾到着後8月21日の早朝、パトロールカーを先導にトレーラーによって明治神宮に到着、宝物殿前の池(北池)にいれて、十分に水蓄をおこない、4年後の昭和50年12月23日、みごとに完成、竣功奉告式が行われました。
ちなみに、この日に竣功奉告式が行われたのは、みなさんご存じのように、上皇陛下(当時は皇太子殿下)の御誕生日の佳き日に当たっていたからです。
さて元の大鳥居は、その後どうなったのでしょうか、実は埼玉県の大宮氷川神社の鳥居として昭和51年4月5日に竣功式が行われて、第二のお役にたっています。
- Q13
清正井(きよまさのいど)は本当に加藤清正が掘ったのですか?
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A
明治神宮の御苑の中に都会では珍しい湧水の井戸があります。東京都の調査では水温は四季を通じて15度前後と一定していて、毎分約60リットルの湧水量があり、昔から「清正井」といわれ加藤清正が自ら掘ったとされています。では本当に加藤清正が作ったのでしょうか? 素朴な質問ですが、これについてお話ししましょう。
加藤清正は安土桃山・江戸初期の武将で朝鮮出兵での「虎退治」の話は有名です。かなりの大男だったようで昭和10年頃東京上野科学博物館で清正の手形が展示されましたが当時の相撲の巨漢出羽カ嶽文治郎(約204cm、187kg)の手形も同時に展示され、その力士よりも手が大きかったそうです。清正は名高い武将であると同時に城造り・治水・干拓の技術にも優れていて「築城の名人」(熊本城・名古屋城)、「土木の神様」とも称されていました。
「清正の井」のあるこの地は江戸時代、加藤家の下屋敷があり加藤清正の子忠広が住んでいたことは間違いないようですが、清正本人が住んでいたかは定かではありません。まもなく加藤家が絶え、その後井伊家の下屋敷となりました。
しかし井伊家の下屋敷になってからも清正にまつわる伝説が伝えられ、萩の庭には清正が朝鮮で虎を槍で突いた時の血しぶきが竹の幹に斑についたとされる「清正将来の虎斑竹〈とらふだけ〉」(本当は「雲紋竹」と言われる竹の種類)や清正が園内散歩の折り腰掛けて休憩したと言われる「清正の腰懸石」があり、この石に座ったり、さわったりすると瘧(おこり・一般にマラリアを指す)になるといわれます。また清正の「手弄石」(『大日本名所図絵』記載)といって大きな岩があったとされますが、どの石のことか不明で一説には腰懸石ではないかとされています。そしてそれらの中で最も有名なのが清正が掘ったとされる「清正井」です。
造営当時すでに横井戸(普通は竪井戸)であることは解っていましたが水源はどこなのか、またどのようにして流れてきているのかまったく不明でした。昔から特殊な技巧で水が湧出するのだと考えられ、今は枯れてありませんが井戸の近くにあった大杉の根元あたりに何か特別の調節装置が設けてあって、そこへ一旦水を溜めてそれが自然に噴出するような仕組みになっていると考えられ、そのような特殊な井戸を作れるのは「土木の神様」といわれた清正しかいないとする伝説が生まれたのでしょう。戦前には熊本より加藤清正の研究家が上京し、清正伝説の中に清正の掘った井戸ならば9か所の隠し井戸があるはずと付近を実地調査したのですがとうとう発見できませんでした。
この井戸は年間を通じて涸れることがなかったのですが、造営当時まわりの木を伐採・移し替えたら一時水が枯渇したので、またあわてて樹木を植え移し戻したら元のように水が出始めたそうです。
大正12年の関東大震災以後には大雨になると白濁になり、また昭和8年の大旱魃(かんばつ)には一時湧水が止まりましたので昭和13年修復工事を行うこととなり、それと同時に水源調査が行われました。その結果水源は御本殿西側権殿敷地付近一帯(現在の本殿倉庫)の浅い地下水が二方向の自然の水路に流れて、井戸の上方斜面から井戸に湧出するまったく自然の湧水であることが解りました。この工事の際旧態を保つため、また水が集まりやすい様に斜面をコンクリートでおおいかぶせ集水槽導笈を新たにしました。しかし、その修復工事からはや60年近くもたち、修復当時の木造も腐朽しましたので平成8年8月30日、59年ぶりに修復工事が行われています。
以上「清正井」が本当に清正が掘ったかどうかは不明ですが、昔からこの地にこれほどたくさんの清正伝説があることは何らかの深い関係があったのだと思います。昔から言い伝えられてきた伝説はすなおに受けとめ、語り継いでいきましょう。また都会では数少ない、しかも今では貴重な湧水となっている「清正井」を大切に守っていきたいものです。
- Q14
なぜ、明治神宮の「破魔矢」は「守護矢」と呼ぶのですか?
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A
神社で出されている矢は一般に破魔矢と呼ばれています。それなのになぜ明治神宮の矢は守護矢というのでしょうか? 明治神宮の守護矢の歴史についてお話します。
明治神宮で矢を出したのは昭和23年の正月からでした。その頃はまだ「破魔矢」の一般的な呼び方で授与していました。しかし明治神宮にふさわしい呼び方はないかと、昭和33年より「明治神宮守護矢」と名前を改めたのでした。 ところで明治神宮で使用している守護矢の羽は何の羽かごぞんじですか? 実は七面鳥の羽を使用しているのです。なぜ七面鳥の羽を使ったかいうと、それまではにわとりの羽を使っていたのですが、見栄えがあまり良くなかったそうです。
また守護矢の数が年々増えるにともないそれまで自然の竹材だったのですが、同じ太さのものを揃えることが年々難しくなってきました。そこでこれに替わる何か良いものはないかと考え、にわとりの羽を七面鳥の羽に、竹材を檜材に替えたのでした。檜材は神社やその他の用材として古来より尊ばれていましたし、そして日本人が最初に使用したのが木の矢だったそうです。
よってにわとりの羽から七面鳥の羽へ、竹材から檜材の矢へと替え、昭和44年の新春より出されたのでした。(鏑矢は昭和46年からです)
以来檜製の矢は明治神宮独創の矢であり、しかも今日では全国の神社で真似るようになり、ほとんどが檜製の破魔矢(守護矢)となっています。
ちなみに破魔矢(守護矢)の由来ですが、昔から矢と弓は魔除けの信仰があり、今でも新築の家の棟上げに檜の弓矢を屋上に飾ります。宮中では皇子誕生の際に弓弦を鳴らす鳴弦(めいげん)の儀が行われますし、民間でも男児の初正月に破魔弓を贈ったりします。
鏑矢(かぶらや)は「鳴りかぶら」ともいい、射ると先端の鏑(かぶら)が鳴り、戦場で戦いの合図として最初に射る矢でした。ですから今でも物事のはじまりを「嚆矢」(こうし・鏑矢の意)といい、また昔から祓の意味でも射られていました。
- Q15
「なんじゃもんじゃ」の木があると聞きましたが?
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A
「なんじゃもんじゃ」とは木の種類にかかわらず、その地方に珍しい、正体不明の立派な木を指していいます。
昔、江戸青山六道の辻(現在は明治神宮外苑内)の人家にあった木は名前がわからないので「なんじゃもんじゃ」(または青山六道の辻にあったことから別名「六道木」)と呼ばれていました。ちなみに「なんじゃもんじゃ」とは「何じょう物じゃ(なんというものか)」の意味です。
そしてこの名前の由来について面白いエピソードがあります。ごぞんじ水戸黄門こと徳川光圀(みつくに)が時の将軍に「あの木は何という木か」とたずねられ、その返事に窮してとっさに「なんじゃもんじゃ!」であると答えたと言われています。将軍に対しての名即答ぶり、さすが名君のほまれ高い黄門さまならではの逸話ですね。
外苑の「なんじゃもんじゃ」の木は和名「ヒトツバタゴ」といい、モクセイカ科の落葉高木で、岐阜県東南部と隣接する愛知県の一部、対馬の北端鰐浦(国の天然記念物に指定)、朝鮮、台湾及び中国の暖帯に分布し、五月に雪のような白い清楚な花を咲かせます。ヒトツバタゴは「一つ葉のタゴ」(タゴはトネリコ※のこと)の意味で、江戸時代尾州(尾張の別称)の藩士でまた植物学者としても有名であった水谷豊文(みずたに・とよぶみ)という人が尾州でトネリコによく似た木を発見しました。トネリコ(タゴ)は複葉ですが、この木は単葉(一葉)だったので「ヒトツバ(一つ葉)タゴ」と命名したそうです。
この外苑の「なんじゃもんじゃ」(ヒトツバタゴ)は大正13年に天然記念物に指定されましたが、残念なことに昭和8年に枯れてしまいました。いま外苑の聖徳絵画館前にある2代目の木は元帝国大学教授の白井光太郎博士が根接法により初代の木から得たものを昭和9年11月に植え継がれたとされています。そして今では外苑のいたる所で見ることができ(別紙参照)、明治神宮の内苑にも昭和51年に植えられて、現在宝物殿の東側、会館車道玄関前、西参道芝地にそれぞれ1本ずつあり、5月になるとみごとな白い花を咲かせますのでぜひ見てください。
また、聖徳記念絵画館の「凱旋観兵式」の壁画の中にもこの「なんじゃもんじゃ」の木が描かれています。
※トネリコモクセイ科の落葉小高木。本州の山地に自生、また人家や田の畦(あぜ)に栽植。高さ約6メートル。芽に褐色毛を密生。葉は羽状複葉。雌雄異株。春四弁淡緑色の細花をつけ、翼果を結ぶ。樹皮を秦皮といい、収斂剤・解熱剤とし、また膠(にかわ)に製する。材は家具、スキー板、野球バットなどに作る。(『広辞苑』)
- Q16
「表敬」の用語は明治神宮でつくられたのですか?
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A
『広辞苑』で「表敬」を引くと「敬意をあらわすこと。」と出ています。今ではごく当たり前のように使われていますが、実は古くから使われていたのではなく、質問の通りこの用語は明治神宮で考えられたのです。
昭和36年12月25日に、南米アルゼンチンのフロンディ大統領が来日され、大統領ご自身の切なるご希望により、明治神宮参拝が日程に組み込まれました。ところが大統領の日本神社での正式な参拝が、母国に伝えられると、熱心なキリスト教信者の多い、母国アルゼンチンの国民感情に悪い影響が出るのではないかと駐日大使が心配しました。
外務省と明治神宮当局とで慎重な打合せが重ねられたのですが、その席上で当時祭儀の儀式課長でした谷口寛氏の提案により、これらの点に充分配慮して「参拝」の語を避けて「表敬」なる新しい用語を提案したのでした。また、拝礼の作法も神社神道の正式な作法はとらないで、一般参拝者の拝礼位置(外拝殿向拝・賽銭箱の前)に花輪を捧げて拝礼する方法が考えられました。外務省もこの提案に賛成してくれ、25日の当日、大統領ご夫妻と外務大臣夫妻以下15人随員、及び大統領府総務長官、アルゼンチン及び欧米各国の新聞・通信、放送テレビなど関係随員等数十名が訪れ、打ち合わせの通り正参道から外拝殿前に進み、大前に花輪をささげて「表敬」参拝されたのでした。
それ以来、外務省を通しての外国賓客の神宮参拝については、すべて「表敬」の用語が使用されるようになったのです。
その後、英国エリザベス女王の訪日(昭和50年)に際して「伊勢神宮表敬」の記事がみられ、昭和58年12月6日刊行の『広辞苑』(三版)にはじめて登載され認知されるようになったのです。これ以後ほかの辞書にもすべて記載されるようになりました。
- Q17
手数入り(でずいり=横綱土俵入り)いつから始まったのですか?
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A
明治神宮と相撲とのかかわりは創建前(明治神宮は大正9年に創建)の大正7年(1918)6月1日、明治神宮外苑の地鎮祭に際し、大日本相撲協会によって地固相撲の神事が行われたことに始まります。次いで大正9年11月2日に明治神宮創建を奉祝して相撲大会が青山練兵場(現在の外苑)にて行われ、大錦横綱方と栃木山横綱方とが分かれて勝敗を競い合い、大錦方が大勝して優勝旗を掲げながら明治神宮に参拝しています。
また大正11年11月2日には、大錦が拝殿前石階下にて横綱土俵入りを奉納した記録があり、これが明治神宮で行われた最初の手数入りです。そして大正14年(1925)11月1日に、当時の栃木山・西ノ海・常の花の三横綱が大前の参拝に続いて、豪快な手数入りを奉納して、3日に明治神宮相撲場(外苑)にて第1回大会が開催されました。これが現在、明治神宮例祭を奉祝して秋に行われる「全日本力士選士権大会」、通称・明治神宮相撲大会のはじまりでした。
つぎに横綱の推挙状授与式ですが、横綱の推挙状制度(免許状授与式)は江戸時代からはじまり、相撲行司の家元・吉田司家(よしだつかさけ)で行われていました。第41代横綱・千代の山より、相撲協会から推挙状が出されることになり、昭和26年6月8日、明治神宮の神前ではじめて横綱推挙式と手数入りが行われ、以来、恒例として明治神宮で行われることとなりました。
現在では横綱推挙式のほか、正月(例年1月上旬)と秋の例祭を奉祝して年に2回、横綱土俵入りが行われています。
ちなみに「手数入り」の「でず」とは、わざの意味で吉田司家の口伝に横綱土俵入りを「手数入り」といったことから由来します。