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コラム「大和心」
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 三島由紀夫大人命(うしのみこと)が、森田必勝(まさかつ)大人命と共に自決されて45年を迎えた。今の世を見つめつつ、三島由紀夫大人命が生前に記した声を振り返ってみたい。

 なぜわれわれは共産主義に反対するか?
 それは、われわれの国体、すなわち文化・歴史・伝統と絶対に相容れず、論理的に天皇の御存在と相容れないからであり、しかも天皇は、われわれの歴史的連続性・文化的統一性・民族的同一性の、他にかけがえのない唯一の象徴だからである。
 明治国家は、西欧の政治体制と日本の国体との折衷的結合を企て、立憲君主制という擬制を採用した。戦後日本は、この折衷的結合を切り離され、議会制民主主義と、象徴天皇との、不即不離の関係に入ったが、一面このために、却って天皇の文化的非権力的本質が明らかになったといえる。回復すべきものは、再びグロテスクな折衷主義ではない。況や、文化の連続性を破棄するが如き共和制ではない。(『反革命宣言』より)

 反共産主義や世俗国家の君主としての天皇のような表層的な国体論ではなく、文化・歴史・伝統の明確な目的のある国体論の立場に立てば、われわれは、われわれの国体と天皇の御存在と相容れないすべてのものから国体と天皇を守らなくてはならない。

 私見によれば、言論の自由の見地からも、天皇統治の「無私」の本来的性格からも、もっとも恐るべき理論的変質が始まったのは、大正14年の「治安維持法」以来だと考える。
 その第1条の『国体を変革し又は私有財産制度を否認することの目的として……』という並立的な規定は、まさにこの瞬間、天皇の国家の国体を、私有財産制度並びに資本主義そのものと同義語にしてしまったからである。(『文化防衛論』より)

 ここで、三島由紀夫大人命は、明確にわれわれの天皇の国家の国体と近代西欧人権思想と資本主義が価値観を異にするものであることを指摘している。

 欧米の自由主義、私有財産主義、そしてその政治的活動としての資本主義の価値観をわが国の価値観だと叫ぶ人たちは、意図的か無知かは別にして、結果としてわれわれの国体の価値を否定しているのである。

 文化の全体性、再帰制、主体性が、一見雑念たる包括的なその文化概念に、見合うだけの価値自体を見出すためには、その価値自体からの演繹によって、日本文化のあらゆる末端の特殊事情までが推論されなければならないが、明治憲法下の天皇制機構は、ますます西欧的な立憲君主政体へと押し込まれて行き、政治的機構の醇化によって文化的機能を捨象して行ったがために、ついにかかる演繹能力を持たなくなったのである。
 雑多な、広範な、包括的な文化の全体性に、まさに見合うだけの唯一の価値自体として、われわれは天皇の真姿である文化概念としての天皇に到達しなければならない。(『文化防衛論』より)

 最近は、憲法改正の議論がにわかに活性化してきたが、大日本帝国憲法下では『民法出でて忠孝亡ぶ』とした穂積八束の論説、現憲法では第24条の規定と、GHQによる民法と戸籍法を改正させるプロセスで、「家(イエ)」を成り立たせる上で根幹となる「戸主権」と「家督相続」を廃止したことの重大なる影響を忘れてはいけない。

 占領期の、原夫次郎衆議院議員は、「わが国の家族制度と天皇制とは、非常に密接なる関係のある従来の旧慣習でありまして……わが国の家族制度であって、この日本国の家族から天皇陛下のお膝元に、大道が通じているものと我々はかねてから信じているのであります」と述べた。

 家と国家、戸主と天皇の文化的相似性がないのであれば、祖先を崇める伝統精神を日常感覚で育み、そこから天皇の国家を理解する精神文化価値は生まれようがないのである。

 戦前、社会問題に挺身した人たちは、全部がとはいわないが、純粋なヒューマニズムの動機にかられ、疎外者に対する同情と、正義感とによって、左であれ、右であれ、一種の社会革命という救済の方法を考えた。(『反革命宣言』より)

 三島由紀夫大人命が指摘したように、戦後の政府与党は、国家権力により民族主義の収奪をしてきた。最近は、その傾向を加速的に一層強め、民族目的と国家目的が文化概念に包まれ一致するための母体としての共同体原理を市場原理で破壊し、弱者を救済する共助文化は政治的に追いやられている。

 こんなことでは、国家に愛着を感じるはずがない。優先すべきは、経済成長や市場の価値と活動を防衛するための安全保障ではなく、国民が心を一つに助け合い安心して子供を産み育て親しき人々に看取られて死んでいける安寧な社会の実現ではないのか。

 われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでいくのを見た。
 政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を潰してゆくのを、歯噛みしながら見ていなければならなかった。
 沖縄返還とは何か?本土の防衛責任とは何か?アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年のうちに自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるだろう。(『檄』より)

 創隊以来、米海軍の機能補填の役割を担う海上自衛隊は元々在日米海軍司令部のある横須賀に所在していたが、近年、府中に在った航空総隊司令部は在日米空軍司令部のある横田に移動し、近々編成される陸上自衛隊の最高司令部も在日米軍司令部の所在する座間に駐屯することが決まった。

 また、今般の安保法制の可決により、平時からの日米共同メカニズムが機能を開始する。これは、日米安保に依存し独自の安全保障戦略を有しないわが国ゆえに、米軍の戦略で各自衛隊が運用される態勢が確立することを意味する。

 天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくことが急であるとした三島由紀夫大人命の憂いが現実のものとなるのだが、自国の軍隊が反国体的価値観の他国によって運用されることの恐ろしさを嘆くどころか、国民の半数が喜んで歓迎している。

 守るとは何か?言論で言論を守ろうとする企図は必ず失敗するか、単に目こぼしをしてもらうに過ぎない。『守る』とはつねに剣の原理である。
 守るという行為には、かくて必ず危険がつきまとい、自己を守るのにすら自己放棄が必須になる。平和を守るにはつねに暴力の用意が必要であり、守る対象と守る行為との間には、永遠のパラドックスが存在するのである。文化主義はこのパラドックスを回避して、自ら目をおおう者だといえよう。(『文化防衛論』より)

 日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。我々の愛する歴史と伝統の国、日本だ。(『檄』より)

 私は、三島由紀夫大人命の声を聞くたびに自分自身を恥じる。少しでも日本の真姿を取り戻したいとの念願は在りながらも、変えるべき価値体系に根拠を見出しながら策を弄(ろう)している今の自分の姿こそ、三島由紀夫大人命が嫌悪した文化主義そのものではないかと。(あ)

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